迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

梅は飛び櫻は枯るる世の中に松をも凌げ杉の玉風。

2019-07-19 22:49:15 | 浮世見聞記
手頃な価格で歌舞伎らしいものを観たくて、国立劇場の「歌舞伎鑑賞教室」へ出かける。




誰が先鞭をつけてしまったものやら、異物の闖入が常態化した木挽町界隈の歌舞伎(しばゐ)を思ふと、「車引」に「棒しばり」といふ典型的な歌舞伎狂言が、かえって新鮮に映るところに、古劇の面目躍如たるものがある。


「棒しばり」は大正時代に初演された能狂言ネタの舞踊劇で、このとき次郎冠者と太郎冠者を演じたのが、二人の舞踊の名手であったところに、いまなお演者を選ぶ狂言であることが、はっきりと示されてゐる。

……舞台を観てゐて、無性に亡き十代目坂東三津五郎さんを思ひ出す。


「車引」は、あらすじや理屈などは二の次、この舞台では梅王丸の美事に楷書な芝居だけを観て、「これが歌舞伎か……!」といふ印象を残せれば、それで充分。

間違っても、ほかの役など観てはいけない。

その間は紅梅白梅の吊り枝でも見ておけば、事が足りる。




またこの一幕では、松王丸の“引き立て役”なる杉王丸を、人間國寶の孫が演じてゐる。

今春から本格的に役者修業の道に入ったと云ふその決断は、正しい。

本気でその道の技藝に生きるつもりならば、太平楽どもに混在して見当違ひな學問など修めてゐる場合ではないのである。

身近に人間國寶がゐるといふことは、自分自身の“寶”でもある。

そこから素晴らしい養分を大ひに吸収して、松にも、梅にも、櫻にも、必ずや成長してほしいものである。



人が敷いた線路に乗せられ、ただぼんやりと転がってゐるやうでは、今回の舞台に見る藤原時平の如く、お門違ひの役を振られて見物に冷笑されるのが関の山である。


『玉磨かざれば光なし』


せっかく抜群の容姿に恵まれたのだから、それを最高の武器に、祖父の人間國寶のごとく何人とも互角に渡り合へる役者に、ぜひ成長して欲しい。


──と、つひつひ手に汗握る。


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