角の酒屋から伸びている旧道を、国道247号線を横断した先で道標に従って右に折れるのが東海道(上段写真、赤線矢印)、直進すると国道1号線の向こうに、宮の宿の語源である熱田神宮の大鳥居が見えます。
伊勢神宮に次ぐ格式を有し、三種の神器のひとつ「草薙の剣」をおさめている熱田神宮にはもちろん参拝し、
道中の安全を祈願。
その後は再び旧東海道へと戻り、かつて宿場だった宮の町を通って行きます。
宮の宿は名古屋城下町に属さない尾張藩管轄下の独立した宿場町で、熱田神宮の門前町と云う性格が色濃かったことから「熱田宿」ではなく“宮の宿”と呼ばれ、全長は約2㎞、約250軒もの旅籠が軒を連ねる、東海道中最大の宿場町でした。
しかし、先程の船中での講師の話しによれば、熱田の街は第二次大戦の空襲で古くからの住民の大半が亡くなり、現在の住んでいるのは戦後以降によそから移って来た人々のため“、地元愛”の薄いのが難点だとか……。
宿場の出口あたりには、関ヶ原の合戦で命を落とした息子を悼んでその母親が架けたと云う、「裁断橋」がありました。
しかし老朽化のため現在は撤去され、
擬宝珠と橋桁の一部が、「都々逸発祥の地」の石碑とともに、保存されています。
熱田橋を渡り、東海道本線の踏切を渡った先で国道1号線に合流、大きな工場群に沿って進んでいくこのあたりは、
かつては「八丁畷」と呼ばれる松並木の道でした。
松田橋交差点で国道1号線と分かれて直進すると、やがて右折して山崎川を渡り、かつては立場─休憩所─がおかれていた“山崎の長坂”を経て、呼続(よびつぎ)という地区へと入って行きます。
ここで七里の渡し船の到着と出発を呼び継いだことからその名が付いたと云われ、現在でも笠寺の手前まで、両側に景気よく商店や民家が続いています。
呼続五丁目で道は左に折れ、名鉄線の踏切と名古屋環状線を続けて渡った先には、笠寺観音「笠覆寺(りゅうふくじ)」の山門が見えます。
のちに藤原兼平の妻となる玉照姫と云う美しい姫君が、雨でずぶ濡れになった地蔵を気の毒に思って笠を被せたという伝説に由来しているそうで、
現在では縁結びの観音様としても崇められているとか。
笠寺観音から古民家の点在する緩い下り坂を十分ほど行くと、「笠寺一里塚」が東側のみ遺っています。
その先で天白川を渡り、名古屋中環状線を横断して、次の鳴海宿を目指します。
伊勢神宮に次ぐ格式を有し、三種の神器のひとつ「草薙の剣」をおさめている熱田神宮にはもちろん参拝し、
道中の安全を祈願。
その後は再び旧東海道へと戻り、かつて宿場だった宮の町を通って行きます。
宮の宿は名古屋城下町に属さない尾張藩管轄下の独立した宿場町で、熱田神宮の門前町と云う性格が色濃かったことから「熱田宿」ではなく“宮の宿”と呼ばれ、全長は約2㎞、約250軒もの旅籠が軒を連ねる、東海道中最大の宿場町でした。
しかし、先程の船中での講師の話しによれば、熱田の街は第二次大戦の空襲で古くからの住民の大半が亡くなり、現在の住んでいるのは戦後以降によそから移って来た人々のため“、地元愛”の薄いのが難点だとか……。
宿場の出口あたりには、関ヶ原の合戦で命を落とした息子を悼んでその母親が架けたと云う、「裁断橋」がありました。
しかし老朽化のため現在は撤去され、
擬宝珠と橋桁の一部が、「都々逸発祥の地」の石碑とともに、保存されています。
熱田橋を渡り、東海道本線の踏切を渡った先で国道1号線に合流、大きな工場群に沿って進んでいくこのあたりは、
かつては「八丁畷」と呼ばれる松並木の道でした。
松田橋交差点で国道1号線と分かれて直進すると、やがて右折して山崎川を渡り、かつては立場─休憩所─がおかれていた“山崎の長坂”を経て、呼続(よびつぎ)という地区へと入って行きます。
ここで七里の渡し船の到着と出発を呼び継いだことからその名が付いたと云われ、現在でも笠寺の手前まで、両側に景気よく商店や民家が続いています。
呼続五丁目で道は左に折れ、名鉄線の踏切と名古屋環状線を続けて渡った先には、笠寺観音「笠覆寺(りゅうふくじ)」の山門が見えます。
のちに藤原兼平の妻となる玉照姫と云う美しい姫君が、雨でずぶ濡れになった地蔵を気の毒に思って笠を被せたという伝説に由来しているそうで、
現在では縁結びの観音様としても崇められているとか。
笠寺観音から古民家の点在する緩い下り坂を十分ほど行くと、「笠寺一里塚」が東側のみ遺っています。
その先で天白川を渡り、名古屋中環状線を横断して、次の鳴海宿を目指します。