七里の渡しは、鎌倉時代には既に「古渡(ふるわたり)」と呼ばれて存在しており、慶長六年(1601年)に徳川家康が宿駅制度を定めたとき、唯一の海路として東海道の正式ルートになりました。
しかし、湾に注ぐ揖斐川、長良川、木曽川からの流砂などのため水深が浅く、干潮時には沖合いを通るため十里の航程となり、また時代が下るにつれて沿岸が埋め立てられたので、ルートは一定していなかったようです。
現代の地図に当てはめて赤線で辿ると、だいたい↓のようになります。
現在ではかつての航路の約8割が、陸地となっていることがわかります。
七里の渡しは現在、名古屋のNPO法人が年に一度復活しており、せっかくなのでそれを利用して、
宮の宿(熱田)を目指すことにします。
なかなか年季の入った船のなかでは、NPO法人のメンバーを講師に“学習会”が開かれましたが、内容は河口に堆積する砂のこと、名古屋港の水質問題及び重工業のことなど、NPO法人の日頃の活動内容の報告が大半で、
東海道五十三次に関する話しは少なく、ほとんど名古屋の水質問題を考える船中勉強会のような雰囲気に、旧東海道の船旅といった風情は薄く、「なんか違ったな……」と、ちょっと残念な気持ちに。
江戸時代には平常で約四時間かかった船旅も、
現代では約半分の所要時間で無事、宮(熱田)の渡し場に到着。
NPO法人のメンバーによる“迎え太鼓”を聞きながら上陸した渡し場跡には、寛永二年(1625年)に建立された常夜灯が残り─ただし当時の位置からは少し移動しているようです─、
また一帯は、「宮の渡し公園」という憩いの場に整備されています。
酒屋の脇からまっすぐに伸びる道が旧東海道、宮の宿はここから始まります。
しかし、湾に注ぐ揖斐川、長良川、木曽川からの流砂などのため水深が浅く、干潮時には沖合いを通るため十里の航程となり、また時代が下るにつれて沿岸が埋め立てられたので、ルートは一定していなかったようです。
現代の地図に当てはめて赤線で辿ると、だいたい↓のようになります。
現在ではかつての航路の約8割が、陸地となっていることがわかります。
七里の渡しは現在、名古屋のNPO法人が年に一度復活しており、せっかくなのでそれを利用して、
宮の宿(熱田)を目指すことにします。
なかなか年季の入った船のなかでは、NPO法人のメンバーを講師に“学習会”が開かれましたが、内容は河口に堆積する砂のこと、名古屋港の水質問題及び重工業のことなど、NPO法人の日頃の活動内容の報告が大半で、
東海道五十三次に関する話しは少なく、ほとんど名古屋の水質問題を考える船中勉強会のような雰囲気に、旧東海道の船旅といった風情は薄く、「なんか違ったな……」と、ちょっと残念な気持ちに。
江戸時代には平常で約四時間かかった船旅も、
現代では約半分の所要時間で無事、宮(熱田)の渡し場に到着。
NPO法人のメンバーによる“迎え太鼓”を聞きながら上陸した渡し場跡には、寛永二年(1625年)に建立された常夜灯が残り─ただし当時の位置からは少し移動しているようです─、
また一帯は、「宮の渡し公園」という憩いの場に整備されています。
酒屋の脇からまっすぐに伸びる道が旧東海道、宮の宿はここから始まります。