琴音さんがトチッのは、昨晩飲み過ぎたせいよ、と杏子さんがわたしに衣裳を着付けてくれながら、耳元でこっそりと言いました。
琴音さんは、実は物凄い大酒飲みなんだそうで、
「アル中とまでは言わないけど、でもあのまま行ったらいづれそうなるわね、あのコ…」
そうやって次の日起きられなくて、舞台をトチったことはこれまでにも何度となくあったようです。
「昨日の夜も、随分と飲んでたもんねぇ。明日大丈夫なのかしら…、って思ってたら、案の定よ」
そう言って溜め息をつく杏子さんも、ちょっとサケ臭かったですけどね…。
「今日の夜まで我慢すりゃいいのにさ。明日は一関への移動だけで、休みみたいなもんなんだから…。そういう辛抱が出来ないのよね、あのコ。…これは結局さ、本人の自覚の問題だから、今ではみんな、わざと起こさないことにしているの」
「はぁ…」
だからみなさん、琴音さんがいなくても平然としていたワケね。
「昨日琴音ちゃん、アンタにエラそうなセリフ吐いてたけどさ…、ええと、なんだっけ、『あたしたち大衆演劇はさ、毎日の舞台を命懸けでやってんのよ!』だっけ?言った次の日に自分がコレじゃ、“命懸け”の値打ちって一体いくらよ、話しになるわよねぇ…」
わたしも、どの程度の意識なのかしら、とは思いましたけど、杏子さんと琴音さんは普段からあまりウマが合わないらしいことには感付いていたので、黙って聞き流すことにしました。
まぁそんな経緯で、わたし、高島陽也が「伊豆の踊子」のヒロイン“薫”を代役することになったんです。
ここまでは、スゴイ、って感じに聞こえるでしょ?
ドラマとか映画の世界だったら、「必死で、それこそ“命懸け”で演じきりました!」とか、そんな気の利いたコメントをしたりして、いよいよサクセスストーリーへと突入、ってところなんでしょうけど、現実って本当にキビシいですよね、この時“薫”役を演じた高島陽也、代役だなんておこがましいくらいの、完全なる“ダルマさん”状態でした。
手も足も出ない、というやつです。
前回の上演で、琴音さんの芝居はだいたい覚えていたつもりだったんですけど、見るのとやるのとでは大きな違い、実際その場になると、どうしていいのかわからなくて、ひたすら棒立ちでした。
座長が、自分が何か言ったらそれを受けて返事するだけでいい、と言ったのは、わたしがそうなるであろうことを見越してのことだったんでしょうね。
芝居のヒロインである以上、とりあえずそこに居てくれなきゃ都合が悪いワケですから。
日々を旅に追われて忙しいのにかまけて、演技を本気で稽古することを怠り、みんながそうしているように、“ヨロシク”と云う用語に象徴される、パターン化したその場しのぎの行き当たりばったりな芝居でお茶を濁して、「コレでよし」としてきたツケが、ここで回ってきた、という気がしました。
いざこういう時になって、自分で芝居や役を創造することが出来なくなっていたんです。
タダでさえ演技経験が無いのに。
結局、ひと月この劇団に客演していて、身に付いたものは何一つ無い、ということです。
初日の時のショックが、再びわたしを襲いました。
自分の未熟さはさておいて、杏子さんが代わってくれた方がよっぽいいと思うと同時に、杏子さんが初日前に言った、
「アタシたちは台本ではなくて、先輩たちの舞台を見ることで、芝居を覚えていくの」
の意味が、ようやく理解できました。
こういったアクシデントが起きたときに、即座に対応出来なければいけない、と云うことです。
それらしく出来たかな、と思えたのは、座敷で踊るシーンだけでした。
地元の福岡で、ちょこっとかじってたおかげで。
この代役の一件で、わたしは初めて目が醒めたような気がしました。
こんなことではいけない。
このままいったら、自分はどんどんダメになっていく…。
あなたが福岡から東京へ出て来た目的は何だったの…?
この旅芝居の劇団で、ぬるま湯な日々を過ごすため?
そうして、水っぽい芝居をするため…?。
そんな理念も何も無い、ただ舞台に立っているだけの役者人生でいいのか、高島陽也…。
セリフらしき言葉を発することも出来ず、演技らしき動きも見せることも出来ず、ただ自分自身の未熟さに唇を噛み締めたい思いのなか、「伊豆の踊子」の幕は下りました。
そして続けて、いつものカーテンコール。
一座全員が舞台の際まで進んでお辞儀をした時、客席にいた一人の中年女性が、花束を抱えて通路を走って来ました。
そしてわたしに、それを差し出しました。
受け取ると、客席は更にワーッと沸きました。
…でもその花束、100キンで売っているインテリア用の造花だったんです。
その人に悪意がないことは充分にわかっていましたけど、でも、なんかなぁ…って苦笑いしたい気分でしたね。
こんなことは、本当は話すべきじゃないのかもしれないんですけど、でも大衆演劇と云うものがどのように認識されているのかを、ふと感じた一瞬でしたので、敢えて申し添えておきます。
そんな花束贈呈の一幕が済むと、座長の簡単な挨拶があって、最後に「これから皆様の客席へお邪魔して、劇団ASUKAオリジナルグッズを販売したいと思いまーす」なんて事前に聞かされていなかった流れになって、でもそんなことには慣れているみんなはすぐに舞台袖へ走ると、グッズを詰めたカゴを引っ張り出して来て、「はーい、いらっしゃいませ~」なんて、持ち前の作り笑顔で客席をまわり始めました。
わたしも杏子さんに、「ほら、今日はヒロインなんだから、特に率先しなきゃ」とカゴをドンとお腹に押し付けられて、「はい…」と盛り上がらない気持ちのまま、客席へ下りました。
え?グッズ、ですか?
ええとですね、座長直筆のサイン入りポスターに団扇に手拭いでしょ、それから…、劇団ASUKAの文字が入ったケータイストラップと…、あ、それから座長の男役と女役のポートレート付き絵葉書なんかもありましたね。
劇団の大事な副収入源ということで、値段は全て3000円以上、チケット代がどこもだいたい1000円から2000円の間だったので、何だかサギ臭く思ったもんでした。
こうした客席での物販はどの会場でもやりましたけど、案の定、大して売れていませんでしたよ。
それよりも、「写真撮らせてちょうだい」って人の方がはるかに多くて、ケータイとかデジカメを向けられっ放しでしたけど、現在(いま)東京じゃ見なくなった使い捨てカメラを手にしている人が、あの辺りではまだまだ健在なのには驚きました。
この志波姫のホールでも、グッズよりも役者の写真撮影の方が人気で、わたしも役のお陰で随分と撮ってもらいました。
そんな感じで客席の最後列まで回ってきた時、そこの一番端っこの席に、一人だけ離れるようにして座っている人の姿が見えました。
それは、白いカッターシャツをカジュアルに着こなした、わたしと同い年くらいの若い男性でした。
ずいぶんと綺麗な顔立ちの人だな、と思ったことを覚えています。
そして、失礼ながらこんな田舎にもこういう男のコっているんだなぁ、なんて思っていると、その後ろの、ロビーへ出るドアの横に立って、じっとこちらを見詰める目があることに、わたしは気が付きました。
その視線の感覚に、わたしは鳥肌の立つ思いがしました。
でもわたしは、そちらを見ました。
やはり、でした。
風邪用のマスクで顔の半分が隠れていましたけど、酒のせいで腫れぼったくなった瞼の下から覗く鋭い眼光は、明らかに飛鳥琴音さんのものでした。
しかも彼女は、今度はいつものように、目を逸らそうとはしませんでした。
じっとわたしを見詰めたままでした。
「……」
その意味するところに、わたしの脳裏には昨日の罵倒された光景が甦り、膝が急に細かく震えだしました。
普通なら、「酔っ払って起きられなかったアンタが悪いンでしょうが…!」ってとこですけど、この時のわたしは気持ちが陰に入っている時でしたから、これは駄目押し以外の何モノでもなくて、今度はわたしが、目を逸らすようでした。
そして顔を伏せるようにして、通路を舞台の方へ戻ろうとしたんですけど、よっぽど狼狽えてたんですね、通路の段差で足を踏み外して、そのまま転んでしまったんです。
〈続〉
琴音さんは、実は物凄い大酒飲みなんだそうで、
「アル中とまでは言わないけど、でもあのまま行ったらいづれそうなるわね、あのコ…」
そうやって次の日起きられなくて、舞台をトチったことはこれまでにも何度となくあったようです。
「昨日の夜も、随分と飲んでたもんねぇ。明日大丈夫なのかしら…、って思ってたら、案の定よ」
そう言って溜め息をつく杏子さんも、ちょっとサケ臭かったですけどね…。
「今日の夜まで我慢すりゃいいのにさ。明日は一関への移動だけで、休みみたいなもんなんだから…。そういう辛抱が出来ないのよね、あのコ。…これは結局さ、本人の自覚の問題だから、今ではみんな、わざと起こさないことにしているの」
「はぁ…」
だからみなさん、琴音さんがいなくても平然としていたワケね。
「昨日琴音ちゃん、アンタにエラそうなセリフ吐いてたけどさ…、ええと、なんだっけ、『あたしたち大衆演劇はさ、毎日の舞台を命懸けでやってんのよ!』だっけ?言った次の日に自分がコレじゃ、“命懸け”の値打ちって一体いくらよ、話しになるわよねぇ…」
わたしも、どの程度の意識なのかしら、とは思いましたけど、杏子さんと琴音さんは普段からあまりウマが合わないらしいことには感付いていたので、黙って聞き流すことにしました。
まぁそんな経緯で、わたし、高島陽也が「伊豆の踊子」のヒロイン“薫”を代役することになったんです。
ここまでは、スゴイ、って感じに聞こえるでしょ?
ドラマとか映画の世界だったら、「必死で、それこそ“命懸け”で演じきりました!」とか、そんな気の利いたコメントをしたりして、いよいよサクセスストーリーへと突入、ってところなんでしょうけど、現実って本当にキビシいですよね、この時“薫”役を演じた高島陽也、代役だなんておこがましいくらいの、完全なる“ダルマさん”状態でした。
手も足も出ない、というやつです。
前回の上演で、琴音さんの芝居はだいたい覚えていたつもりだったんですけど、見るのとやるのとでは大きな違い、実際その場になると、どうしていいのかわからなくて、ひたすら棒立ちでした。
座長が、自分が何か言ったらそれを受けて返事するだけでいい、と言ったのは、わたしがそうなるであろうことを見越してのことだったんでしょうね。
芝居のヒロインである以上、とりあえずそこに居てくれなきゃ都合が悪いワケですから。
日々を旅に追われて忙しいのにかまけて、演技を本気で稽古することを怠り、みんながそうしているように、“ヨロシク”と云う用語に象徴される、パターン化したその場しのぎの行き当たりばったりな芝居でお茶を濁して、「コレでよし」としてきたツケが、ここで回ってきた、という気がしました。
いざこういう時になって、自分で芝居や役を創造することが出来なくなっていたんです。
タダでさえ演技経験が無いのに。
結局、ひと月この劇団に客演していて、身に付いたものは何一つ無い、ということです。
初日の時のショックが、再びわたしを襲いました。
自分の未熟さはさておいて、杏子さんが代わってくれた方がよっぽいいと思うと同時に、杏子さんが初日前に言った、
「アタシたちは台本ではなくて、先輩たちの舞台を見ることで、芝居を覚えていくの」
の意味が、ようやく理解できました。
こういったアクシデントが起きたときに、即座に対応出来なければいけない、と云うことです。
それらしく出来たかな、と思えたのは、座敷で踊るシーンだけでした。
地元の福岡で、ちょこっとかじってたおかげで。
この代役の一件で、わたしは初めて目が醒めたような気がしました。
こんなことではいけない。
このままいったら、自分はどんどんダメになっていく…。
あなたが福岡から東京へ出て来た目的は何だったの…?
この旅芝居の劇団で、ぬるま湯な日々を過ごすため?
そうして、水っぽい芝居をするため…?。
そんな理念も何も無い、ただ舞台に立っているだけの役者人生でいいのか、高島陽也…。
セリフらしき言葉を発することも出来ず、演技らしき動きも見せることも出来ず、ただ自分自身の未熟さに唇を噛み締めたい思いのなか、「伊豆の踊子」の幕は下りました。
そして続けて、いつものカーテンコール。
一座全員が舞台の際まで進んでお辞儀をした時、客席にいた一人の中年女性が、花束を抱えて通路を走って来ました。
そしてわたしに、それを差し出しました。
受け取ると、客席は更にワーッと沸きました。
…でもその花束、100キンで売っているインテリア用の造花だったんです。
その人に悪意がないことは充分にわかっていましたけど、でも、なんかなぁ…って苦笑いしたい気分でしたね。
こんなことは、本当は話すべきじゃないのかもしれないんですけど、でも大衆演劇と云うものがどのように認識されているのかを、ふと感じた一瞬でしたので、敢えて申し添えておきます。
そんな花束贈呈の一幕が済むと、座長の簡単な挨拶があって、最後に「これから皆様の客席へお邪魔して、劇団ASUKAオリジナルグッズを販売したいと思いまーす」なんて事前に聞かされていなかった流れになって、でもそんなことには慣れているみんなはすぐに舞台袖へ走ると、グッズを詰めたカゴを引っ張り出して来て、「はーい、いらっしゃいませ~」なんて、持ち前の作り笑顔で客席をまわり始めました。
わたしも杏子さんに、「ほら、今日はヒロインなんだから、特に率先しなきゃ」とカゴをドンとお腹に押し付けられて、「はい…」と盛り上がらない気持ちのまま、客席へ下りました。
え?グッズ、ですか?
ええとですね、座長直筆のサイン入りポスターに団扇に手拭いでしょ、それから…、劇団ASUKAの文字が入ったケータイストラップと…、あ、それから座長の男役と女役のポートレート付き絵葉書なんかもありましたね。
劇団の大事な副収入源ということで、値段は全て3000円以上、チケット代がどこもだいたい1000円から2000円の間だったので、何だかサギ臭く思ったもんでした。
こうした客席での物販はどの会場でもやりましたけど、案の定、大して売れていませんでしたよ。
それよりも、「写真撮らせてちょうだい」って人の方がはるかに多くて、ケータイとかデジカメを向けられっ放しでしたけど、現在(いま)東京じゃ見なくなった使い捨てカメラを手にしている人が、あの辺りではまだまだ健在なのには驚きました。
この志波姫のホールでも、グッズよりも役者の写真撮影の方が人気で、わたしも役のお陰で随分と撮ってもらいました。
そんな感じで客席の最後列まで回ってきた時、そこの一番端っこの席に、一人だけ離れるようにして座っている人の姿が見えました。
それは、白いカッターシャツをカジュアルに着こなした、わたしと同い年くらいの若い男性でした。
ずいぶんと綺麗な顔立ちの人だな、と思ったことを覚えています。
そして、失礼ながらこんな田舎にもこういう男のコっているんだなぁ、なんて思っていると、その後ろの、ロビーへ出るドアの横に立って、じっとこちらを見詰める目があることに、わたしは気が付きました。
その視線の感覚に、わたしは鳥肌の立つ思いがしました。
でもわたしは、そちらを見ました。
やはり、でした。
風邪用のマスクで顔の半分が隠れていましたけど、酒のせいで腫れぼったくなった瞼の下から覗く鋭い眼光は、明らかに飛鳥琴音さんのものでした。
しかも彼女は、今度はいつものように、目を逸らそうとはしませんでした。
じっとわたしを見詰めたままでした。
「……」
その意味するところに、わたしの脳裏には昨日の罵倒された光景が甦り、膝が急に細かく震えだしました。
普通なら、「酔っ払って起きられなかったアンタが悪いンでしょうが…!」ってとこですけど、この時のわたしは気持ちが陰に入っている時でしたから、これは駄目押し以外の何モノでもなくて、今度はわたしが、目を逸らすようでした。
そして顔を伏せるようにして、通路を舞台の方へ戻ろうとしたんですけど、よっぽど狼狽えてたんですね、通路の段差で足を踏み外して、そのまま転んでしまったんです。
〈続〉