七代目芳村伊十郎が戦前に吹き込んだレコードの復刻版CDを、久しぶりに聴く。
近世長唄界の名人と謳はれた七代目芳村伊十郎が、前名の九代目芳村伊四郎、前々名の四代目芳村金五郎の時代に吹き込んだもので、古いレコードに付きものの激しい雑音を最先端の技術で丁寧に取り除き、明瞭な音質を再現した画期的なCDシリーズの一枚。
「末広がり」や「黒髪」といった、ほかの長唄CD全集にはあまり見られない小品が、若かりし日の伊十郎によって吹き込まれてゐる珍しさから、何年も前に購入したものだ。
そもそも私が学生時代に初めて聴ひた長唄が、CDに収録されたこの唄方による「勧進帳」だった。
図書館の“視聴覚資料コーナー”にあったもので、二曲目には「越後獅子」が併録されてゐた。
ここで余人ならば、『名人藝の素晴らしさに全身が震えた』とかなんとか、最高の賛辞を語るところなのだらうが、当時は長唄といふ音楽についての知識など何もない、ただの興味で接した学生時代の私に伊十郎の藝など解るはずもなく、
「長唄って、かういふものなのか……」
と、それをごく普通に受け止め、呑み込んでゐた。
いきなりそこから長唄に入ったためか、私はいまだに七代目芳村伊十郎の藝の“凄さ”といふものが、はっきりとは解らずにゐる。
いや、ある程度までは理解してゐる、つもりだ。
今回聴ひた復刻版CDに収録されてゐる三曲にしても、高音で唄ふ箇所の伸びの良い聲などは、私のやうな素人耳でもその美しさが認識できる。
まう一方で“名人”とされてゐる二代目芳村五郎治の、いかにも老人くさい唄聲と聴き比べても、確かにその差は歴然としてゐる。
にも拘わらず、本当の意味での理解が、私はいまだ出来ずにゐる。
だが、まァそれでもいいか、と思ふ。
余人が必ず絶賛する圓生、志ん生、文楽の落語を私はそれほどにも感じないが、しかしそれで済ましてゐる如く、無理に解らうとする必要など、無い。
七代目芳村伊十郎の長唄が、私にとって長唄といふ音楽の基準線であることに、変わりは無いのだ。
わからないことを無理にわからうとする──
その心の負荷が、物事を嫌ひにしてしまふ元凶である。
といふわけで、もういちど「末広がり」でも聴かうか。
近世長唄界の名人と謳はれた七代目芳村伊十郎が、前名の九代目芳村伊四郎、前々名の四代目芳村金五郎の時代に吹き込んだもので、古いレコードに付きものの激しい雑音を最先端の技術で丁寧に取り除き、明瞭な音質を再現した画期的なCDシリーズの一枚。
「末広がり」や「黒髪」といった、ほかの長唄CD全集にはあまり見られない小品が、若かりし日の伊十郎によって吹き込まれてゐる珍しさから、何年も前に購入したものだ。
そもそも私が学生時代に初めて聴ひた長唄が、CDに収録されたこの唄方による「勧進帳」だった。
図書館の“視聴覚資料コーナー”にあったもので、二曲目には「越後獅子」が併録されてゐた。
ここで余人ならば、『名人藝の素晴らしさに全身が震えた』とかなんとか、最高の賛辞を語るところなのだらうが、当時は長唄といふ音楽についての知識など何もない、ただの興味で接した学生時代の私に伊十郎の藝など解るはずもなく、
「長唄って、かういふものなのか……」
と、それをごく普通に受け止め、呑み込んでゐた。
いきなりそこから長唄に入ったためか、私はいまだに七代目芳村伊十郎の藝の“凄さ”といふものが、はっきりとは解らずにゐる。
いや、ある程度までは理解してゐる、つもりだ。
今回聴ひた復刻版CDに収録されてゐる三曲にしても、高音で唄ふ箇所の伸びの良い聲などは、私のやうな素人耳でもその美しさが認識できる。
まう一方で“名人”とされてゐる二代目芳村五郎治の、いかにも老人くさい唄聲と聴き比べても、確かにその差は歴然としてゐる。
にも拘わらず、本当の意味での理解が、私はいまだ出来ずにゐる。
だが、まァそれでもいいか、と思ふ。
余人が必ず絶賛する圓生、志ん生、文楽の落語を私はそれほどにも感じないが、しかしそれで済ましてゐる如く、無理に解らうとする必要など、無い。
七代目芳村伊十郎の長唄が、私にとって長唄といふ音楽の基準線であることに、変わりは無いのだ。
わからないことを無理にわからうとする──
その心の負荷が、物事を嫌ひにしてしまふ元凶である。
といふわけで、もういちど「末広がり」でも聴かうか。