明くる十月一日。
いま考えても、この日は色んなことがあったなぁ、って思います。
それこそ、わたしの大衆演劇体験のクライマックスと言ってもいいくらいです。
この日は朝から晴天でしたけど、TVで、
「明け方、東北本線で貨物列車が強風にあおられて横転、上下線とも不通となり、復旧の見通しは不明…」
と云うニュースが流れたくらい、明け方から午前中にかけて強い風が吹いて、わたしも窓からの隙間風がヒューヒュー鳴る音で目が覚めたくらいです。
文化ホール前の広場では、前日から地元の人たちが出している露店テントが一部、風でひっくり返ったりしていて、なかなか大変なことになっていましたっけ。
そんな二日目の演(だ)し物の「伊豆の踊子」は、その一週間くらい前に、仙台からずっと西へ行ったところにある愛子(あやし)と云う町で一度上演していて、この時で二度目でした。
配役は前回のまま、主役の学生が座長の飛鳥武流さん、ヒロインの踊り子“薫”は花形の飛鳥琴音さん、旅芸人一座の頭である“四十女”を生田杏子さん、わたしは一座の踊り子の少女の一人、でした。
…いやいや、「伊豆の踊子」と言っても、川端康成の原作みたいな、あんな美しいものではなくて、如何にも大衆演劇らしく内容を崩したクサーイ芝居でした。
第一幕は下田の宿屋の玄関先の場で、旅芸人たちと学生が到着する場面、第二幕は、まず一場目が宿屋の大座敷の場で、琴音さんとわたし扮する踊子が湯治客相手に踊りを見せる場面。
愛子でやった時はお客の入りが極端に悪くて―百人以上入る客席に、確か十人も入っていなかったんですよ…―、座長がすっかり気を悪くしちゃいましてね、初めから第二部の舞踊ショーをカットして、代わりにこの場を舞踊ショーみたいにしようと、劇団にたまたまあった小唄のMDから三曲適当に選んでつなげて、それはそれで本格的に踊りました。
振付はもちろん、座長本人です。
例の如く開演十分前に楽屋でサラッと踊って見せて、「あとは、“よろしく”」
もちろん、基礎の古典を習っていない方ですから、小唄の踊りと云っても、それっぽい程度のものでしたけど。
で、二場目が宿屋の奥庭で、学生と踊子“薫”がお互いに想いをコクるシーン。
「明日の休みは一緒にカツドウを見に行こう」と約束していると、杏子さん演じる四十女が割って入ってきて、「ウチの大事な稼ぎ手にこれ以上手を出さないでおくれ」と野暮臭いことを言って二人の仲を引き裂くという定番の悲恋シーンがあって、その後、ここがまさに大衆演劇らしいところなんですけど、湯治の男客たちが登場して―タレント崩れの四人がやってたんですけど、彼らがセリフのなかで「ゆとうじ」、漢字で書くとたぶん「湯湯治」と云う、意味の解らないニホン語を口にしていたのが、今でも耳に残っています…―露天風呂へと入った薫の裸を覗き見しよう色々努力した挙げ句に見たのは四十女の裸で、「オエ~ッ!」となっているところへ、さらに「ナニさらしとんじゃい!」と頭へお湯をぶっ掛けられる―本当に水を浴びせました―という喜劇シーン(“コミック”)のあと、第三幕の下田港の場で二人は言葉を交わすことなく泣く泣く別れる、と云う流れでした。
前日に座長から通達があったように、この「伊豆の踊子」は全て、愛子でやった時のままでいくつもりだったんですけど、実際にはその通りにはなりませんでした。
なぜならば、ヒロイン役の琴音さんが、この日、舞台をトチッたからなんです。
琴音さんはどんなにバタバタと忙しい時でも、開演一時間前には必ず楽屋の鏡台前に座って舞台化粧を始める人だったんですけど、この日に限って、一時間前はおろか、三十分前になっても楽屋に姿を見せませんでした。
昨日の一件のこともあるし、もしかしてわたしのせい…?、とけっこう気になったんですけど、ところがみんな、不思議なことに平然としているんです。
まるで、琴音さんがいないことに気が付いていない、というふうにも見えるし、そんなことはとっくに承知している、というようにも見えるしで、どうしたものかと、わたしだけがオロオロした気分でいると、時計が十三時開演の二十分前を示した時、化粧を済ませて鏡台前でタバコをふかしていた座長が突然、
「よし。今日は、琴音は休みに決まりだ。“薫”はハルちゃん、あんたが代わってくれ」
あまりに自然に、サラリと言ったので、わたしは思わず「はい?」と訊き返したくらいです。
「おいおい、こんなこと二度も言わせてくれんなよ。ハルちゃんが、琴音の代役すんだよ」
「あ、はい…!」
これで、昨日から尾を引いていたブルーな気分は、一気に吹き飛びました。
わたしが、代役!?
途端に、頭の中が真っ白になって、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。
時間は既に、開演まで二十分を切っています。
「おい、ナニ固まってんだ。支度だ、支度」
「はい…!」
「おっと、こっち向いてみろ」
わたしが言われた通りにすると、座長はわたしの化粧顔をじっと見て、
「よし、顔の地の色はそれでいい。今度は脇役じゃないから、目張(めは)りと口は、紅を上から足して色をもっとハッキリと。衣裳は琴音のをそのまま着ろ。体型は大して違わないから、寸法に問題はないだろ。鬘はいま自分が使ってンのでOKだな。挿し物だけ、琴音のをそのまま移して…」
そんなのは慣れっこなのか、慌てることなく冷静に指示する座長の姿に、わたしもだんだんと落ち着きを取り戻していきました。
「芝居の流れは、もちろん分かってんな?」
「はい」
「二幕目第一場の座敷踊り、振りは覚えてんな?」
「はい」
「今回はハルちゃん一人だから、途中で振りがわかんなくなったら、“よろしく”やってくれて構わない」
「はい」
「それからセリフだ。万事、俺が話しかけるのを返事する形、これでいく。その方が破綻がなくていい。それに“薫”の初心(ウブ)な感じもよく出るしな…」
あと十数分で、あれだけの量のセリフをどうやって覚えたらいいんだ、と云う最大の不安は、これで解消されました。
「今日は琴音が欠けてる分、裏方が大変だけど、よろしく頼むぞ。特に音響…」
キュンと痛みが走る、わたしの心臓。
でも座長は、わたしではなくて、杏子さんの方を見ていました。
すると杏子さん、本人としてはたぶん照れ隠しのつもりだったんでしょうね、
「化粧しちゃえば、アタシだって遠目には若く見えんだから、琴音ちゃんの代わりはアタシじゃダメかしらァ…?」
なんて素っ頓狂なことを言い出して、こんな緊急事態の最中のKY発言に、座長のスイッチがまた入ってしまって…。
「俺が言ったことわかってんのか、こらぁッ…!」
〈続〉
いま考えても、この日は色んなことがあったなぁ、って思います。
それこそ、わたしの大衆演劇体験のクライマックスと言ってもいいくらいです。
この日は朝から晴天でしたけど、TVで、
「明け方、東北本線で貨物列車が強風にあおられて横転、上下線とも不通となり、復旧の見通しは不明…」
と云うニュースが流れたくらい、明け方から午前中にかけて強い風が吹いて、わたしも窓からの隙間風がヒューヒュー鳴る音で目が覚めたくらいです。
文化ホール前の広場では、前日から地元の人たちが出している露店テントが一部、風でひっくり返ったりしていて、なかなか大変なことになっていましたっけ。
そんな二日目の演(だ)し物の「伊豆の踊子」は、その一週間くらい前に、仙台からずっと西へ行ったところにある愛子(あやし)と云う町で一度上演していて、この時で二度目でした。
配役は前回のまま、主役の学生が座長の飛鳥武流さん、ヒロインの踊り子“薫”は花形の飛鳥琴音さん、旅芸人一座の頭である“四十女”を生田杏子さん、わたしは一座の踊り子の少女の一人、でした。
…いやいや、「伊豆の踊子」と言っても、川端康成の原作みたいな、あんな美しいものではなくて、如何にも大衆演劇らしく内容を崩したクサーイ芝居でした。
第一幕は下田の宿屋の玄関先の場で、旅芸人たちと学生が到着する場面、第二幕は、まず一場目が宿屋の大座敷の場で、琴音さんとわたし扮する踊子が湯治客相手に踊りを見せる場面。
愛子でやった時はお客の入りが極端に悪くて―百人以上入る客席に、確か十人も入っていなかったんですよ…―、座長がすっかり気を悪くしちゃいましてね、初めから第二部の舞踊ショーをカットして、代わりにこの場を舞踊ショーみたいにしようと、劇団にたまたまあった小唄のMDから三曲適当に選んでつなげて、それはそれで本格的に踊りました。
振付はもちろん、座長本人です。
例の如く開演十分前に楽屋でサラッと踊って見せて、「あとは、“よろしく”」
もちろん、基礎の古典を習っていない方ですから、小唄の踊りと云っても、それっぽい程度のものでしたけど。
で、二場目が宿屋の奥庭で、学生と踊子“薫”がお互いに想いをコクるシーン。
「明日の休みは一緒にカツドウを見に行こう」と約束していると、杏子さん演じる四十女が割って入ってきて、「ウチの大事な稼ぎ手にこれ以上手を出さないでおくれ」と野暮臭いことを言って二人の仲を引き裂くという定番の悲恋シーンがあって、その後、ここがまさに大衆演劇らしいところなんですけど、湯治の男客たちが登場して―タレント崩れの四人がやってたんですけど、彼らがセリフのなかで「ゆとうじ」、漢字で書くとたぶん「湯湯治」と云う、意味の解らないニホン語を口にしていたのが、今でも耳に残っています…―露天風呂へと入った薫の裸を覗き見しよう色々努力した挙げ句に見たのは四十女の裸で、「オエ~ッ!」となっているところへ、さらに「ナニさらしとんじゃい!」と頭へお湯をぶっ掛けられる―本当に水を浴びせました―という喜劇シーン(“コミック”)のあと、第三幕の下田港の場で二人は言葉を交わすことなく泣く泣く別れる、と云う流れでした。
前日に座長から通達があったように、この「伊豆の踊子」は全て、愛子でやった時のままでいくつもりだったんですけど、実際にはその通りにはなりませんでした。
なぜならば、ヒロイン役の琴音さんが、この日、舞台をトチッたからなんです。
琴音さんはどんなにバタバタと忙しい時でも、開演一時間前には必ず楽屋の鏡台前に座って舞台化粧を始める人だったんですけど、この日に限って、一時間前はおろか、三十分前になっても楽屋に姿を見せませんでした。
昨日の一件のこともあるし、もしかしてわたしのせい…?、とけっこう気になったんですけど、ところがみんな、不思議なことに平然としているんです。
まるで、琴音さんがいないことに気が付いていない、というふうにも見えるし、そんなことはとっくに承知している、というようにも見えるしで、どうしたものかと、わたしだけがオロオロした気分でいると、時計が十三時開演の二十分前を示した時、化粧を済ませて鏡台前でタバコをふかしていた座長が突然、
「よし。今日は、琴音は休みに決まりだ。“薫”はハルちゃん、あんたが代わってくれ」
あまりに自然に、サラリと言ったので、わたしは思わず「はい?」と訊き返したくらいです。
「おいおい、こんなこと二度も言わせてくれんなよ。ハルちゃんが、琴音の代役すんだよ」
「あ、はい…!」
これで、昨日から尾を引いていたブルーな気分は、一気に吹き飛びました。
わたしが、代役!?
途端に、頭の中が真っ白になって、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。
時間は既に、開演まで二十分を切っています。
「おい、ナニ固まってんだ。支度だ、支度」
「はい…!」
「おっと、こっち向いてみろ」
わたしが言われた通りにすると、座長はわたしの化粧顔をじっと見て、
「よし、顔の地の色はそれでいい。今度は脇役じゃないから、目張(めは)りと口は、紅を上から足して色をもっとハッキリと。衣裳は琴音のをそのまま着ろ。体型は大して違わないから、寸法に問題はないだろ。鬘はいま自分が使ってンのでOKだな。挿し物だけ、琴音のをそのまま移して…」
そんなのは慣れっこなのか、慌てることなく冷静に指示する座長の姿に、わたしもだんだんと落ち着きを取り戻していきました。
「芝居の流れは、もちろん分かってんな?」
「はい」
「二幕目第一場の座敷踊り、振りは覚えてんな?」
「はい」
「今回はハルちゃん一人だから、途中で振りがわかんなくなったら、“よろしく”やってくれて構わない」
「はい」
「それからセリフだ。万事、俺が話しかけるのを返事する形、これでいく。その方が破綻がなくていい。それに“薫”の初心(ウブ)な感じもよく出るしな…」
あと十数分で、あれだけの量のセリフをどうやって覚えたらいいんだ、と云う最大の不安は、これで解消されました。
「今日は琴音が欠けてる分、裏方が大変だけど、よろしく頼むぞ。特に音響…」
キュンと痛みが走る、わたしの心臓。
でも座長は、わたしではなくて、杏子さんの方を見ていました。
すると杏子さん、本人としてはたぶん照れ隠しのつもりだったんでしょうね、
「化粧しちゃえば、アタシだって遠目には若く見えんだから、琴音ちゃんの代わりはアタシじゃダメかしらァ…?」
なんて素っ頓狂なことを言い出して、こんな緊急事態の最中のKY発言に、座長のスイッチがまた入ってしまって…。
「俺が言ったことわかってんのか、こらぁッ…!」
〈続〉