迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊―日光道中14 外国府間追分→栗橋宿→房川の渡し跡

2011-05-19 08:32:38 | 旧日光道中/旧日光御成道
筑波道との追分を過ぎると、旧道は国道4号線の西側をほぼ並走する形で栗橋宿に向かって続き、東北新幹線の高架下を通った先の「小右衛門(南)」信号で一度国道に合流。

すぐ先の久喜市栗橋東6-20で再び左手に分かれますが、その分岐点にはピンク色の外装もケバケバしい“R指定”の劇場があり、その意外な展開に思わず一人大爆笑しながら通り過ぎて約20分後、鈎の手の道を通って栗橋宿に(上段写真。右手の工事用の囲いが本陣跡)。

栗橋宿は日光道中唯一の渡し場である「利根川の渡し」を控えた宿場町として大いに賑わい、また東海道の箱根の関所、中山道の碓氷の関所と並ぶ重要な関所、「栗橋の関所」も控えていました。


栗橋宿ではぜひ立ち寄りたかったのが、久喜市栗橋中央1-2-7、JR宇都宮線「栗橋駅」東側にある、静御前のお墓。



多少なりとも歌舞音曲に携わっている者として、素通りするわけにはいきません。

地元の伝説によると、静御前は源義経と別れたのち、文治5年(1189年)9月15日にこの栗橋の地で死去、琴柱と云う侍女によって高柳寺(光了寺とも)に葬られましたが、時代がそれを許さなかったのでしょう、彼女のお墓であることを示すものは何も無く、やがて高柳寺は1200年代初めに静のお墓を残して、利根川の向こうの中田へと移転しました。

それから約700年後の享和3年(1803年)5月、しるしが何も無いことを惜しんだ関東郡代の中川飛騨守忠英によって「静女之墳」が建立、それが現在伝わっているものだそうです(但し、現在の墓碑は最近になって新しくしたもののようです)。


寄り道ついでもう一つお話しすると、栗橋宿は三遊亭圓朝の怪談噺「怪談牡丹灯籠」で、お露の幽霊に主人の萩原新三郎を百両で売った伴蔵とお峯の夫婦が、江戸を離れて荒物屋を開いた場所でもあります。

伴蔵はその後程なく宿場の酌婦に入れ揚げ、嫉妬するお峯と口論になった末に“旧悪”を大声で喚き立てたので、後日幸手の土手で口封じに殺害してしまうと云う、苦楽を共にしてきたはずの夫婦の、あまりにも哀しい結末。


さて、この辺りでお話しも探訪も本道へと戻りましょう。

本陣裏手の土手を越えた先に栗橋の関所はありましたが、明治末に行われた利根川の大規模な改修工事によって、かつて関所があった地点もご覧の通り、



現在ではどこにでも見られるただの河川敷となっています。


大正13年に利根川橋が完成するまでの長きにわたって存続していた利根川の渡しは、もともとは「房川(ぼうせん)の渡し」と云ったそうで、当時栗橋宿には「宝泉寺」と云う法華宗の寺があり、それに因んで「坊川(ぼうせん)」と呼んでいたのが“房川”になった、と地元では伝えられています。
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