「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       ズッキーニーと家庭菜園の頃

2008-08-21 05:08:32 | Weblog
きのう老妻の故郷、信州から遠縁の"若い”おばあちゃんが娘夫妻と孫を
連れて訪ねてきた。還暦をすぎたばかりの、僕らからみれば娘とたいして
変わりがない年齢だ。お土産に地元で獲れたズッキーニを貰った。まだみ
たことがない"ペポかぼちゃ”という種類だ。見た目は小形のかぼちゃと変
わりがない。

変な連想だが、このズッキニーを見て僕は戦中戦後の食糧難時代を想い
起こした。当時東京ではどこも家庭菜園造りが盛んで、垣根にはかぼちゃ
の蔓がはい"田舎の香水"が撒かれていた。都心の昭和通りにもトウモロ
コシがたわわに実をつけていた時代だ。

東京都内の中等学校(旧制中学、女学校)は多摩川べりに学校農園を持
っていた。昭和15年の紀元2600年事業の一つとして、東京市が中等学校
に貸与していた。僕の学校も旧巨人軍球場近くの農園でかぼちゃやサツマ
イモ、トウモロコシを作り、月に数回"田舎の香水”撒きや雑草とりにでかけた。

ズッキーニーは名前は聞いていたが、食べるのは初めてだ。ネット情報で
は、カボチャと違って未熟のうちに料理するのがよいという。そういえば、
あの食糧難時代も完熟を待たず、獲って食べたものだ。完熟まで畑に置く
と誰かに盗まれてしまったからだ。

恵まれた時代である。老妻早速頂いたズッキーニーをスケッチし、料理の
本と首っきり。今夕あたり食卓に上ってくるだろう。昔、砂糖のない時代に
母親が煮てくれたあの栗かぼちゃの味には及ばないだろうがー。

         なぜ北京五輪は八月開催なのか?

2008-08-20 05:35:11 | Weblog
毎日毎日、北京五輪のニュースばかりで、少々食傷気味だ。選手がせい一杯頑張って
いると思うのだが、その活躍の割にはメダルの獲得数がのびない。そのせいもあるの
かもしれない。いつもなら必見の女子マラソン中継を見なかった。結果は案の定だった。

負け戦に後から文句をつけるのは、潔くないが、やはり屋外の過酷なスポーツを八月に
開催するのは非常識で無礼だ。僕は中国本土へは行った事がないが、旅行書をみると
北京のベストシーズン十月と書いてある。八月は七月についで雨量も多く、平均気温も
高い。ある人の旅行ブログには”八月の北京は”暑さ”ではなく"熱さ”だと書いてあった。

女子マラソン優勝一番手と見られた野口みずき選手は大会前にダウン、土佐礼子選手
も走ったが、25キロ過ぎで棄権してしまった。二人とも過去に出場したレースで棄権した
ことなど一度もない。やはり、レース前、過酷な気温とコースに耐えるため練習をしすぎた
としか思えない。

1964年の東京五輪は一年で”晴れ”が特異日といわれる十月十日を開催日に選んだ。
開催前日までは大雨だったが、当日は朝から雲一つない秋晴れだったのを覚えている。
北京五輪は市郊外の人工降雨基地からロケットを飛ばし雨雲を消して開催に漕ぎつけ
たという。

世界中からアシュレーツを招き,世紀の祭典にしたいならば、なぜ一番天気のよい季節
にしなかったのかー。中国の国祭日を調べてみたら、十月は建国記念日(十月十日)
などあって忙しい。勘ぐる訳ではないが、行事の何もない、そして自国の選手に有利な
八月に開催したとしか思えない。

         戦争に負けた最初の日曜日

2008-08-19 05:06:43 | Weblog
戦争に負けた最初の日曜日の亡父の日記である。
昭和20年8月19日(日)晴
「戦争終了後最初の公休日である。外見的には未だ世相に変化はないが、自分の気
分には相当遷った(かわった)ものがある。即ち防空頭巾と巻ゲートルは廃止した。
防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。よく気をつけると、街頭人の服装
も国防色が次第にへりつつある。只(ただ)困るのは無智都民のつまらぬデマ流布で
ある。六時起床日課朝食。けふ(きょう)は床屋も湯屋も休みなので終日在宅して戦局
終結に関する記録を整理したほかは何もせず。
聖上陛下には、この日、東久邇首相宮を召され、灯火管制を解き街を明るく、娯楽を復
興せよ。文書の検閲を明朗にせよとの御言葉を賜った由。政府は臨時閣議を開き直ち
に実施を決定した」(注 湯屋は銭湯,お風呂屋)

亡父は明治17年生れ、当時63歳であった。敗戦僅か4日後の日記だが、都民が早くも
国防色(カーキ色)離れを始めているのが興味深い。僕も覚えているが、戦争末期には
いつ空襲があるかわからず、都民はゲートルをつけたまま真っ暗の中で就寝していた。
亡父の前日(18日)の日記の欄外には、赤字で警戒警報発令午前10時40分、同解除
11時20分とあるところをみると”戦後”でも一応臨戦体制にあったのだ

僕は中学3年だったが、動員先の工場を解除され家でブラブラしていた。学校が再開され、
焼跡の校舎で授業が始まったのは27日からである。家の庭の防空壕が壊されて、狭い
庭がやっと広く見えるようになったのは、30日であった。

       "心と心の外交”を! 福田総理

2008-08-18 04:55:56 | Weblog
東京タワーに近い古刹、青松寺の境内にインドネシア独立の父、スカルノ(初代
大統領)が二人の日本人に当て揮毫した顕彰碑がある。碑には「市来辰夫と吉
住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり」と書かれてある。

きのう17日はインドネシア共和国の63回目の独立記念日である。招かれて僕は
早朝8時から東京五反田の駐日大使公邸の庭で開かれた式典に列席した。式典
は昭和20年8月17日午前10時(日本軍政時間=当時)ジャカルタのスカルノ邸で
行われた独立宣言当日を模して毎年行われている。

ASEAN諸国を対象に実施される世論調査では、いつもインドネシアが一番の親日
国である。わが国のODA援助の総額もインドネシアがトップである。ところが、ここ
数年、両国関係に”かげり”が出てきている。日本の対インドネシア投資額は、世
界で五指に入っていない。在留日本人の数も1万人を割り込んだ。

きのうの式典でも日本人の列席者も、かってに比べてその数は減ってきている。福
田総理が会長の日本インドネシア協会からは一人も参加がない。福田総理の厳父,
赳夫氏がASEAN外交の基軸としてインドネシアとの"心と心の”外交を説いていた頃
は、数十人の日本人が式に列席していた。

インドネシア側は、きのう列席した日本人の従軍体験者に対して、真っ先に”ナシ・クニ
ン”(サフランの黄色のご飯のご馳走)を大使自身の手で遇した。これこそが”心と心”
の外交だ。”他人の嫌がることは”-と気を配るのもよいが、アジアで最大の親日国の
独立式典に自ら会長を務める協会から一人も列席しないのはどんなものかー。とくに
今年は両国の国交樹立50周年の節目の年なのである。



   河野議長 英霊には加害責任はありません!

2008-08-17 06:18:27 | Weblog
PCがダウンしてしまった。もともと機械には弱い僕だが、まったくお手上げ。
メーカーのサポートセンターの手助けで、原因はプロバイダーのモデュムに
あるらしいことが判り、この暑い中届けて貰った。世間を騒がせて御免なさ
い。年寄は困ったものだ。

困った年寄は僕だけではない。8月15日の「戦没者を追悼し平和を祈念する」
式典での河野衆議院議長の戦争の"加害責任”発言は、僕なんかの比では
ない。戦没者を追悼する式典で、なんで”加害”責任を問うのか?場違いもよ
いところだ。そして式場と目と鼻の先にある靖国神社を意識したのだろう。彼
の嫌う靖国に代わって、国の慰霊代替施設を造れと提案している。

河野議長は例の"従軍慰安婦"問題から始まって、歴史を自虐的に勝手に解
釈しすぎる。例えば、靖国神社である。戦前、東京の子供は春の例大祭(4月
30日)と秋の大祭(10月27日)当日は学校が休みで、国のため命を落とした先
人を慰霊した。天皇陛下が参拝される日は九段坂から社(やしろ)まで遺族や
参拝の人で埋まったものだ。戦地の兵士の間でも"名誉の戦死したら社頭で再
会しよう”が合言葉になっていた。

繰り返していうが、8月15日は310万人戦没者追悼の日である。戦争"加害”を
自虐的に反省する日ではない。靖国神社の代替施設を提案する日ではない。
国のために命を落とされた方々を追悼し、静かに1分間の黙祷を捧げる日で
ある。



          戦争 宗教心の喪失

2008-08-14 05:10:31 | Weblog
昨日の僕の日記の備考欄に”月おくれのお盆、迎え火”と書いてあった。が
"月おくれ”といっても今、新暦の7月にお盆の行事をするのは東京の区部と
札幌ぐらいではないだろうかー。全国ほとんどの地では、旧暦でお盆をしてい
る。迎え火の習慣はどうなのだろうかー。東京でも昔は迎え火をしていたが、
最近はもうほとんどみられなくなった。

「8月15日」は"月おくれ”のお盆の最中だったが、東京の人間にはお盆と結
びつける思考はない。でもこの季節は戦争でなくなった戦没者の霊に想いを
はす。昨日のNHKラジオ「深夜便」の早朝番組(午前4時)”心の時代”で西部
ニューギニア(インドネシア)の激戦地マノクワりから九死に一生をえて生還した
93歳の方の戦争体験が語られていた。

敵との戦闘というよりも飢餓との戦いで,戦友たちがバタバタ倒れる中でこの方
は"神も仏もあるものか"と思ったそうだ。子供だった僕もそう思った。この戦争
は最後には「神風」が吹いて勝利すると固く信じていたからだ。従軍世代から僕ら
の世代の中には戦後もこの影響で無神論者が多い。多分、昔からの仏事や神
事が戦後消えたり、失われてきているのは多少この影響かも知れない。

最後に僕がこの生還者に共鳴したのはこの言葉だ。"神や仏は依存するものでは
ない。最後に頼れるのは自分だけだ。しかし、神仏への尊崇心を失ってはいけない。
今の世の乱れは、この尊崇心の喪失からきている”人生の先達として理解できる。



     ”なんも言えねえ”  北島選手の記録

2008-08-13 05:10:47 | Weblog
水泳の北島康介選手が百メートル平泳で58秒91の世界記録で優勝、金メダル
を獲得した。五輪で水泳同種目で二連覇は初めてのこと。北島選手の言葉を
借りれば”なんも言えねえ”脱帽である。明日の二百メートル決勝が楽しみだ。
ぜひとも二種目優勝の偉業達成を祈っている。

戦後の「水泳日本」、古橋、橋爪時代、僕も記録は”横綱”と”ふんどしかつぎ”
ほどの記録の違いはあったが、神宮プールで泳いだことがある。種目北島選
手と同じ百メートル平泳ぎだ。いま北島選手と同じに泳いだら、彼がゴールイン
しても、まだ僕はやっと50mをターン したぐらいの記録だ。古橋選手の1500
メートルの世界記録でさえ今は女子選手の記録である。

「水泳日本」でも”冬の時代”が10年近く続いたことがある。あの東京五輪(19
64年)と次のメキシコ五輪(1969年)の二回、日本は東京五輪の800mリレーで
銅メダルを獲っただけで、個人では一個もメダルを獲っていない。理由は解ら
ないが、しいて理屈をつければ選手の適齢年齢が、スポーツより政治に興味が
あった"団塊”の世代だったからかもしれない。

この時代の水泳関係者の努力は大変だった。幸い経済の高度成長期で全国に
スイミング・クラブが出来たのがこの時代であった。昔は”水泳不毛”の地とされ
た北国からも、スイミング・クラブのお蔭で五輪選手を輩出できるようになった。
北島選手も東京の"水”には関係のない日暮里の出身である。水泳以外のスポ
ーツでもクラブ方式は応用出来るのではー。


         自由ヶ丘の”隠れ家”での集まり

2008-08-12 06:05:35 | Weblog
昨日、旧友の快気祝いをかねて、すでに亡き共通の友人の奥方をまじえ、僕ら夫婦
四人で昼間自由ヶ丘で会食した。自由ヶ丘は最近、東京では”住みたい町”の上位
にランクされている。店は駅から5分だが、地名は区も町の名前も違う。ついこの間
までは静かな住宅街、その三階建てマンションの一階を改造した”隠れ家”の雰囲
気を持っている。中の造りも昭和初期に似せている。驚いたのは表通りから見えない
のに店内は女性客で一杯の盛況である。

店自慢の”仁松膳”(¥2620)を注文した。前菜、刺身、焼魚,煮物、汁、ご飯、水菓子
がちまちまと運ばれてくる。若者には足りないかもしれないが、僕らには十分だ。とくに
普段、老妻のつくる粗食に耐えている僕には美味でご馳走に感じた。

会食した四人は、戦中戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた。結婚して子育ての時代
は昭和30年代である。まだグルメなどほど遠かった。両方の家族で、房州の民宿に一
泊した時のことが話題になった。その時幼児だった彼の長男は、かわいそうに昨年彼
より先に亡くなってしまった。

僕と一緒に飲み歩いた親友は、亡くなって今年で七回忌だ。が、彼の奥さんには、3か月
まえ男のひい孫が誕生した。木賃アパートの六畳間で彼の背中の上で戯れていた彼の
長男は40代なのにもう”おじいさん”である。光陰矢の如しである。斗酒辞さなかった僕ら
もお互い二杯の焼酎のお湯割でストップした。


        "加油”! 都会の子供たち

2008-08-11 05:21:29 | Weblog
昨日の朝、家の周りで初めて油蝉の鳴声を聞いた。猛暑続きで地上へ出るのを
ためらっていたのだろうか。普段の年より10日は遅い。昔、僕らが子供だった戦前
の東京では、7月夏休みが始まる頃には、もうにいにい蝉が鳴いていた気がする
がー。ここ数年来、にいにい蝉の鳴声など聞いたことがない。初鳴きの油蝉の声は
かぼそく未熟だ。老妻がカラスと聞きまちがうほど元気がない。

早朝のラジオ体操の会場にはまだ多少緑が残っている。が、ここでも例年に比較す
ると、蝉の合唱はおとなしい。蝉だけでなく夏休みの子供たちの参加者も少ない。そ
れも7割から8割は女の子だ。男の子はどうしたのか?中には親に連れられて仕方な
さそうに来る子もいる。僕ら元気な戦争中の小国民からみると、今の子供たちの体操
は、まるで手足がぐにゃぐにゃしていて蛸踊りだ。

会場に来ている犬まで元気がない。老犬なのかもしれないが、座ったまま舌を出して
あえいでいる。早く家に帰りたいのか、体操の音楽が終わと同時に飼主のほうへ駆け
よってゆく。元気なのはお年寄りと会場の土の上を働きまわる蟻たちだけだ。

北京五輪の日本人選手の活躍も今のところ、あまり元気がない。"頑張れ”というのを
中国語で”加油”というのだそうだ。都会のラジオ体操会場の子供たちをみて、思わず
”加油”と叫びたくなる。塾通いもよいが、せめて夏休みぐらい,想い出づくりに自由に
遊ばさせてやろう。

       ロシア軍の猛攻 歴史は繰り返す

2008-08-10 05:42:16 | Weblog
「露、グルジアに猛攻」と新聞が大きな活字で伝えている。これを見て63年前の、
昭和20年8月9日、ソ連(当時)軍が突如、日ソ中立条約をホゴにしてわが国に
宣戦布告をしてきたのを想い出した人が多いに違いない。僕もその一人だ。ソ
連は、この”火事場泥棒”的な開戦で、いまなおわが国固有の領土である、北
方四島を占領したまま返さない。

昭和20年8月9日の亡父の日記は次のように書いている。「午前10時半、大東亜
省に寄って出勤、昼食そこそこに帝国ホテルでの岡崎勝男氏(外務省調査局長
戦後外相)の講演会に行き、席上、日ソの開戦を知る。容易ならざる事態の発生
に憂鬱の気に閉ざされる」 ソ連の布告は日本時間8日午後11時だから、岡崎氏
の講演は布告から半日ぐらいだ。そして、ちょうどこの講演の頃、長崎に原爆が投
下されていた。(9日午前11時2分)

それから二日後の亡父の日記(11日)には「けふも昨日に引続き不快な情報を聞
く」と書いてある。不快な情報とは敗戦であろう。広島に続き長崎に原爆が投下さ
れれば日本はポツダム宣言を受諾するだろうというソ連の巧妙な判断だ。事実
その通り、大本営は10日、ポツダム宣言受諾を決めた。ソ連は長崎原爆投下の10
数時間前を狙って宣戦を布告して”火事場泥棒”を働いた。

昨年も小ブログ(8月9日)は、ソ連の”火事場泥棒”的な行動に触れた。しかし、平和
ボケして、さきのサミットでも「領土問題」にも触れられない政治家への警告として
再度ブログした次第。