早いもので、東日本大震災が起きてから5年である。死者行方不明者1万8455人をだし、今なお17万人の方々が避難生活を続けられている。わが国開闢(かいびゃく)以来ともいえる大惨事であった。地震発生時、僕は東京の自宅で参院決算委のテレビ中継を見ていたが、M9.0という地震の揺れは、東京でも80歳の僕の人生で初めて経験するものであった。決算委では野党議員が菅直人総理(当時)の韓国人からの政治献金問題を追及していた。
大地震発生の翌12日の小ブログは「超巨大地震の経験」という題で、わが家の家族の体験談を記し、同時に”自然の怒りは緩んだ日本人への警鐘だ”として鳩山内閣につぐ菅内閣の政治献金問題を暗に批判しているが、翌々13日のブログでは早くも「後手後手の政府の対策」として、南三陸町では1万人もまだ行方不明なのに、菅総理がヘリで福島原発事故視察に出かけ、1時間も現地にとどまり復旧に支障をきたしたと批判している。この段階では、まだ自衛隊の出動の要請はなかった。に
3日目(14日)のブログでは「しっかりしてくれ政府の震災対策」として、突如首都圏で実施された”計画停電”を取り上げ、交通網が乱れて”無政府”状態になったにもかかわらず、電力問題に素人の連舫女史を節電担当の大臣に任命したり、辻元清美女史をボランティア担当に任命したが、この時点では被災現場は、ボランティア受け入れどころではなかった。
発生5日目(16日)のブログ「流言飛語には踊らぬが正しい情報を」というタイトルで首都圏のスーパーからパンやカップヌードルなどが消え、都民が買いだめに走ったことを紹介している。菅内閣は17日、”自衛隊は暴力装置”発言の仙石前官房長官を何故か副長官に起用しているが、今思うと、きちんとした危機管理もなく、わが国にとって最大の危機であったのかもしれない。小ブログは3月いっぱい、大震災がテーマであった。
大地震発生の翌12日の小ブログは「超巨大地震の経験」という題で、わが家の家族の体験談を記し、同時に”自然の怒りは緩んだ日本人への警鐘だ”として鳩山内閣につぐ菅内閣の政治献金問題を暗に批判しているが、翌々13日のブログでは早くも「後手後手の政府の対策」として、南三陸町では1万人もまだ行方不明なのに、菅総理がヘリで福島原発事故視察に出かけ、1時間も現地にとどまり復旧に支障をきたしたと批判している。この段階では、まだ自衛隊の出動の要請はなかった。に
3日目(14日)のブログでは「しっかりしてくれ政府の震災対策」として、突如首都圏で実施された”計画停電”を取り上げ、交通網が乱れて”無政府”状態になったにもかかわらず、電力問題に素人の連舫女史を節電担当の大臣に任命したり、辻元清美女史をボランティア担当に任命したが、この時点では被災現場は、ボランティア受け入れどころではなかった。
発生5日目(16日)のブログ「流言飛語には踊らぬが正しい情報を」というタイトルで首都圏のスーパーからパンやカップヌードルなどが消え、都民が買いだめに走ったことを紹介している。菅内閣は17日、”自衛隊は暴力装置”発言の仙石前官房長官を何故か副長官に起用しているが、今思うと、きちんとした危機管理もなく、わが国にとって最大の危機であったのかもしれない。小ブログは3月いっぱい、大震災がテーマであった。