「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

改めて思う 後手後手だった菅内閣の大震災対策

2016-03-11 07:19:43 | 2012・1・1
早いもので、東日本大震災が起きてから5年である。死者行方不明者1万8455人をだし、今なお17万人の方々が避難生活を続けられている。わが国開闢(かいびゃく)以来ともいえる大惨事であった。地震発生時、僕は東京の自宅で参院決算委のテレビ中継を見ていたが、M9.0という地震の揺れは、東京でも80歳の僕の人生で初めて経験するものであった。決算委では野党議員が菅直人総理(当時)の韓国人からの政治献金問題を追及していた。

大地震発生の翌12日の小ブログは「超巨大地震の経験」という題で、わが家の家族の体験談を記し、同時に”自然の怒りは緩んだ日本人への警鐘だ”として鳩山内閣につぐ菅内閣の政治献金問題を暗に批判しているが、翌々13日のブログでは早くも「後手後手の政府の対策」として、南三陸町では1万人もまだ行方不明なのに、菅総理がヘリで福島原発事故視察に出かけ、1時間も現地にとどまり復旧に支障をきたしたと批判している。この段階では、まだ自衛隊の出動の要請はなかった。に

3日目(14日)のブログでは「しっかりしてくれ政府の震災対策」として、突如首都圏で実施された”計画停電”を取り上げ、交通網が乱れて”無政府”状態になったにもかかわらず、電力問題に素人の連舫女史を節電担当の大臣に任命したり、辻元清美女史をボランティア担当に任命したが、この時点では被災現場は、ボランティア受け入れどころではなかった。

発生5日目(16日)のブログ「流言飛語には踊らぬが正しい情報を」というタイトルで首都圏のスーパーからパンやカップヌードルなどが消え、都民が買いだめに走ったことを紹介している。菅内閣は17日、”自衛隊は暴力装置”発言の仙石前官房長官を何故か副長官に起用しているが、今思うと、きちんとした危機管理もなく、わが国にとって最大の危機であったのかもしれない。小ブログは3月いっぱい、大震災がテーマであった。

東京大空襲の記憶と風化した「陸軍記念日」

2016-03-10 08:13:47 | 2012・1・1
昭和20年前3月10日の未明、東京の下町はB-29の空襲にあい10万人以上が犠牲になっている。僕は幸い当時五反田(品川区)に住んでおり被害に会わなかったが、下町の東北方向に上った、あの、ものすごい業火は、71年経った今でも僕の記憶に鮮明だ。そのためであろう。僕は、このブログを始めた2006年以来、1年を除いて毎年この東京大空襲を題材にしてきた。

3年前の小ブログで、石原慎太郎知事(当時)に対して、記者の一人が、東北大震災が起きたため東京大震災が風化してきたのではないかと質問したと書いた。記者は自分の印象を知事に尋ねたのであろうが、僕と同世代の知事は頭からこれを否定していた。しかし、残念ながら風化まではいかないが、マスコミの扱いが年々小さくなってきているの事実だ。今年もわが家で購読している二紙は、地域版(東京版)で犠牲者供養式を小さく扱ったに過ぎない。

昭和1ケタ世代にとって3月10日は「陸軍記念日」でもあった。小ブログは、過去に何回か「陸軍記念日」について書いたが、戦前までこの日は明治38年(1905年)、日露戦争で日本陸軍がロシア軍を破り、奉天(瀋陽)を占領した記念日であった。同じように海軍が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した5月27日は海軍記念日であった。「陸軍記念日」も「海軍記念日」も今では、ほとんど知る日本人はいなくなった。

東京大空襲が「陸軍記念日」と同じように風化するとは思えないが、学校で教える歴史教育の中では、きちんと正しく後世に伝えて貰いたいものである。

朗報 戦時中の「スマトラ新聞」みつかりました

2016-03-09 10:51:19 | 2012・1・1
3月7日記述の小ブログ「97歳大先輩に聞く戦時下のセレベス」の中で、残念ながら国立インドネシア図書館から戦時下パダン(西スマトラ)で発刊されていた日本語「スマトラ新聞」が目録だけで紛失したと書きましたが、調査に出かけた知人宛てに、実物が残存していたた旨訂正のメールが入りました。研究者にとっては朗報です。

"ポストの数ほど保育所を”の時代の保母さんからのコメント

2016-03-09 06:08:05 | 2012・1・1
先日、小ブログで、今、社会を騒がせている匿名ブログ「保育園落ちた日本死ぬ」批判を書いたところ、かって保育園の園長をしていた知人の女性(82)から”あきれる一言”。さらにそれ以上に憤りを感じるのは、これに便乗して国会周辺でデモをしている連中だ”とメールでコメントを頂いた。僕も先のブログで、この匿名ブログは政治的な意図の臭いがすると旨示唆したが、案の定、共産党の女性参院議員が”保育園落ちたの私だ”のプラカードを掲げデモに参加していた。

知人の女性は昭和28年から平成5年、定年で園長を辞めるまで40年間、保母さんをされ、自身、二人のお子さんを育てておられる。女性はメールのコメントの中で、”私たちの時代は、今のように恵まれていなかった。長男(昭和35年生まれ)の時は7回も保育所を変えた。自宅で他人のお子さんも一緒に預かる”保育ママ”(家庭福祉士)の体験もされたと書かれている。

昭和35年から45年の時代は、高度成長から都会では一挙に”共稼ぎ”が増え、極端な保育所不足になり”ポストの数ほど保育園を”運動が展開された。知人の女性は保母さんとして、保育予算の増加運動にも参画、仲間は童謡を歌いながら保育所の増設を訴える街頭デモにも参加した。女性の書かれた「私が見てきた保育の歴史}(けやき出版1998年)には、過去の保育所の苦闘の歴史が記されているが、戦後すぐの時代には女性の”二コヨン”(日雇い労働者)支援のために職業安定所近くで野外託児所もあったという。

デモに参加した共産党の女性議員は、夫も東京の区議をしており、二人の収入から認可保育所の入園基準には当てはまらない。こういったことをよく調べずに匿名で勝手放題の事を書き、これを国会で問題にするとは、無責任きわまりない。

 ウォーキングからくる足腰の痛み 85歳からの警告

2016-03-08 06:06:53 | 2012・1・1
昨日、2年6か月前に置換した左膝の人工関節の年3回の事後チェックをしてきた。幸い、レントゲンの結果も正常で、改めて自分の足で歩ける喜びを感じた。80歳を過ぎると、僕の周囲でも足腰の痛みを訴える者が多くなり、昔の会合にも不参加が増えてきた。今は、寒い季節ということもあって、僕も出不精になりがちだが、これでは、いけないと思っている。

高齢者の最大の問題は、足腰の弱みからくる”閉じ籠り”ではないかと思う。家にだけいると、どうしても運動機能は低下してくるし、社会との接触も限られ”ボケ”につながるような気がする。10年前75歳の時のの日記とブログを読み返してみたら、僕はまだまだ元気であった。10日間もバリ島へ遊びに出かけている。日常も早朝の地域のラジオ体操にも参加、毎日万歩計をつけて5000歩は歩いていた。

僕が膝に痛みを感じたのは77歳頃で、近くの整形外科病院で診て貰ったところ、年齢からくる半月板の摩耗だという。そして痛みを軟らげるための注射をし、若者なみの体操をしたりした。1年ぐらい通院したが、よくならず、別の病院に変えたら”電気”治療である。これも治療した直後は一時的によくなるだけである。次にはスポーツジムに行き、水中歩行とマッサージをした。これは減量には役だったが、抜本的な治療にはならなかったようだ。

今、通院している医師によると、高齢者の足腰の痛みは、おもに長年の間違った歩き方からきているからだという。そういえば、僕も若い時代から他人からこれを指摘されたことがある。ウォーキングが健康に良いということでブームだが、僕の体験では、ただいたずらに歩くだけでは膝を痛めるだけだと思う。70歳代はまだ元気で歩きまわっていたが、足腰に痛みを感じたら、専門医に歩き方を相談したほうがよい。

沈丁花 人生の転換期

2016-03-07 10:00:43 | 2012・1・1

東京はここ数日、気温が上がり、春の気配を感じるようになった。隣家の玄関先の沈丁花(じんちょうげ)の花が春の香りを漂いさせてきた。この香りを嗅ぐと、僕は35年前、足掛け10年勤務した北海道のテレビ局を50歳で定年前に辞め、生まれ故郷の東京に引揚げて来た時を想い出す。昭和56年3月、僕は関係先への挨拶状で”久方ぶりの東京、公害も遠のき、街には沈丁花の花の匂いが春を告げています”と書いている。

サラリーマンにとって、長年勤めた会社を中途で退職するには決心がいる。当時、一般会社の定年は55歳であった。あと5年勤めれば、退職金がもらえ、無事退職できることは判ったいたが、僕の場合、最初に勤めた会社の都合で、すで二つも別の会社に出向し、そのつど退職金を頂戴しているから、最後の退職金もそんなに多くない。それより、定年後の勤め先のメドが、北海道では全くない事であった。

将来への具体的な展望もなく、仕事を辞めたのは無謀であったが、今、考えると人生の転換期であったのだろう。退職して1年間、僕は失業保険を貰いながら、昔、若い時に勤務したインドネシアについて勉強しなおそうと思い、その手始めとして、リンガフォンを買い求めで独学で勉強した。運はどう拓けて来るものか判らない。そのインドネシア語が後半、僕の生活の具になり、人生の横軸になるとは35年前には想像もしていなかった。、


  

”保育園落ちた日本死ね” 80老にも送られてきたが

2016-03-06 05:23:55 | 2012・1・1
”何んだよ日本、一億総活躍じゃねーのかよ 昨日見事に保育園おちたわ どうすんだよ 私は活躍できねーじゃないか”という書き出しで、今、ネット上を賑わせている”保育園落ちた日本死ね”の匿名ブログに賛同を求めるメールが、僕にも送られてきたが、こんな、みすみす茶番劇と思われる問題が、国会でも取り上げられるとは、いったい、この国はどうなっているのだろうか。

ネットの情報を総合すると匿名ブログの主は、30歳代の地方都市に住む主婦で、地元の保育園に子供の入園を申し込んだが抽選で外れたらしい。その”はらいせ”なのだろう。”子供を産んで、子育てし、社会に出て働き、税金を収めてるって言っているのに日本は何が不満なのか。何が少子化なんだくそ”"不倫してもワイロを貰ってもよいから保育園を増やせ どうすれば、よいんだ 会社を辞めなければならないんだ ふざけるな”と当り散らしている。

こんな”蓮っ葉”な文体はどう見ても普通の主婦が書いたものとは思えない。なのに先日国会の衆院予算委で、民主党の山尾志桜里議員がこれを取り上げ、安倍総理に所感を聞いていたが、総理としては匿名のこんなブログに答えられるわけはない。これに対して、民放の番組の中には、総理を冷淡だと批判していたが、何か僕には、この茶番劇は民主党と特定民放が仕組んだ、政治的なコラボに見えてならない。

”日本死ね”と言われても僕ら老人は困る。年金で生活しているし介護支援を受けている者も多い。52万人も特養老人が施設への入居待ちをしている。僕らの世代は、子供の頃から”堪える”ことを教わってきた。世の中、すべて自分の思う通りにはいかない、どうか自分の国家を簡単に”死ね”などと言わないで欲しい。

朝鮮学校への補助金 ”在日特権”の見直しを

2016-03-05 06:10:20 | 2012・1・1
産経新聞(3月4日付け首都圏版1面トップ)の報道によると、平成28年度当初予算に朝鮮人学校への補助金を計上している自治体は127に上り、その総額は全国で3億円を超えるとのこと。僕は特定の国への”ヘイト”の持ち主ではないが、少し、大盤振る舞いすぎるような感じがするが、どうだろうかー。

朝鮮人学校への補助金は自治体が域内の各種学校への補助金として行われているようだが、果たして必要なのであろうか。日本人の海外進出で、世界各国に現在数多くの日本人学校があるが、土地を無償で借りていたり、税金を一部免除されたりしているケースはあるが、その国から補助金を受けている国は聞かない。日本国内でも朝鮮人学校以外に補助金を受けている外国人学校はあるのだろうかー。

朝鮮人学校への補助金問題がいつから始まったのか。昭和24年の閣議決定では、国は財政補助する必要はない、と決定しているが、いつの間にか各自治体独自の裁断で補助金を渡すようになり、さらに民主党政権時には、授業料を無償にすべきだという意見まで出てきた。5年前、東日本大震災で国をあげて非常事態に対処しているのに、当時の高木義明文科相は、明年度から朝鮮人学校の授業料は無償化にすると大騒ぎしていた。

学校への補助金問題だけではない。いわゆる「在日特権」が、僕の目にはおかしい。例えば、生活保護についても「在日特権」によって受給している韓国.朝鮮人がいたり。特定の条件下であるが、老齢年金受給者もいる。過去の”殖民地時代”の歴史から、なし崩し的にこのような特権が与えれたのであろうが、戦後70年も過ぎ、きちんと特権について整理するうときにきているのではないだろうか。5年前大震災が起きた時、国会では菅直人総理の在日韓国人からの政治献金が話し会われていたのを想い出す。

北朝鮮戦、サポーターで埋め尽そう なでしこジャパン

2016-03-04 06:16:27 | 2012・1・1
サッカー女子五輪アジア最終予選で”なでしこ.ジャパン”が二戦して勝ち星がなく、6か国中5位という窮地に立っている。今夜の中国戦に勝たなければ、過去4大会続いていた五輪に出場できなくなる。オーストラリア、韓国との2戦を見る限り、なでしこは善戦しており、残る3試合に勝つことは不可能ではない。

テレビ観戦で見ると、会場は国際大会にしては狭い。観客収容人員は2万人足らず、それも超満員とは思えない。2日の韓国戦では観客は5600人だったという。おれだけ、女子サッカーが人気なのに何故なのだろうかー。サッカーはサポーターの応援が勝ち星への追い風になると、よく聞くが、なでしこが勝てないのはこれが原因しているのであろうか。

4日の中国戦に勝利すれば、恐らくリオ五輪出場をかけて9日の北朝鮮戦と戦うことになる。政治とスポーツとは別世界という理由から北朝鮮チームは日本へ入国できたが、あれだけ国際的な傍若無人な国である。心の片隅に抵抗感があるのは僕だけではあるまい。だけど、出場を許可した限りは、北朝鮮には勝利したい。いたずらに誤解を呼ぶようなサポートは避けたいが、、わが国的な整然とした応援で、会場をサポータ―で埋め尽くしたい。

勝負は時の運もあるが、なでしこが重圧に耐えらえないことはあるまい。拉致問題ついて、日本がこれだけ国をあげて問題になっていることが、北朝鮮チームの関係者にも伝わればよい。僕もテレビ観戦ながら、なでしこ.ジャパンに声援を送りたい。

97歳大先輩から聴く戦時下のセレベス新聞

2016-03-03 07:52:59 | 2012・1・1
昨日、1月の大腸ガン手術後初めて電車に乗ってスラウェシ研究会主催の集まりに参加した。会には戦時中マカッサルで「Pewarta Celebes」(セレベス新聞)記者だった黒崎久さん(97)や海軍軍政部の軍属だった粟竹章二さん(90)の元気な姿があり、戦時下のマカッサルの話を聞いた。黒崎さんの自伝「八十年を顧みて」はスラウェシ研究会のブログ「スラウェシ情報マガジン」に一部が紹介されているが、当時の日本の軍政を知るうえで貴重な記録である。

戦後70年、従軍世代の高齢化から戦友会も解散し、直接”戦争”を聞く機会が少なくなってきた。同時に貴重な資料が散逸し始めきた。「セレベス新聞」は。発行元の毎日新聞が戦後マイクロ.フィルム化して保存されているが。同盟通信(共同通信)が、戦時下スマトラ.パダンで傘下の地方紙合同で発行していた「スマトラ新聞」は、残念ながらインドネシア国立図書館の手違いから、散逸してしまった。今年2月、僕の知人が図書館を訪れたところ、かってフィルムが存在していたことを示す書録(写真)には、「Sumatora Simbun」17 April-27September 2603}とあるが、保存箱はカラであった。(書録の2603は,戦時下日本軍政が使用していた皇紀)

3年余の日本軍政であったが、現地インドネシア住民に与えたインパクトは大きかった。しかし、当時の日本軍政の記録は正しくインドネシアに伝わっているだろうか。例えば、スマトラの第25軍戦友会が戦後、自主出版した「富の歩み」や「赤道標」は貴重な記録である。このまま一部の日本人研究者だけの研究書にするには惜しい。「スラウェシ情報マガジン」は、一部をインドネシア語で発信しているが、日イ友好親善のため、一層のご努力をお願いしたい。