『神戸文学史夜話』によせて 足立巻一
① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく
承前
② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく
93歳の宮崎翁は今も、『環状彷徨』の加筆訂正を続けておられます。ここで足立先生が「終生の仕事…」と書いておられる通りのことが、50年後の今も続いているわけで…。