六車さんからお贈りいただいた。
「名筆」7月号です。
表紙は村上翔雲師の書。30×19.5センチの小さなもの。
しかし素晴らしい。名刀で書いたような切れ味。
清々しくもあって。書のことは解らないのですが、この書がいいというのはわかります。
次にこのページがいいです。
←二段階クリックで。
そして、そのページの中の左下の、このコラム。
廣田瑛子さんが書いておられる「筆咲悠々」④です。
王羲之について書いておられる。
王羲之の書は、書家にとって基準になるものだと。
振り返って、文章を書く者にとって基準になる人はあるのだろうか?
わたしにとってみても、すぐにパッと言えない。
漱石でも龍之介でもなく、足立巻一先生でも杉山平一先生でもない。
もちろん、勉強はさせてもらって、参考にはしますが、「基準」にするということはない。
それが「書」では王羲之がそうなのだと。
「文章」と「書」では違うのでしょうね。
文章はあまりにも複雑だ。
それぞれが手本にするようなものはあるかもしれないが、誰もが基準とするようなものはないのでしょう。
「名筆」7月号です。
表紙は村上翔雲師の書。30×19.5センチの小さなもの。
しかし素晴らしい。名刀で書いたような切れ味。
清々しくもあって。書のことは解らないのですが、この書がいいというのはわかります。
次にこのページがいいです。
←二段階クリックで。
そして、そのページの中の左下の、このコラム。
廣田瑛子さんが書いておられる「筆咲悠々」④です。
王羲之について書いておられる。
王羲之の書は、書家にとって基準になるものだと。
振り返って、文章を書く者にとって基準になる人はあるのだろうか?
わたしにとってみても、すぐにパッと言えない。
漱石でも龍之介でもなく、足立巻一先生でも杉山平一先生でもない。
もちろん、勉強はさせてもらって、参考にはしますが、「基準」にするということはない。
それが「書」では王羲之がそうなのだと。
「文章」と「書」では違うのでしょうね。
文章はあまりにも複雑だ。
それぞれが手本にするようなものはあるかもしれないが、誰もが基準とするようなものはないのでしょう。