

姫路文学館へ行ってきました。
開催中の「坂本遼展」を観に。
よくもまあ、これだけの資料を展示できたものだと思いました。
学芸員さんのご苦労が忍ばれます。
草野心平、竹中郁を初め坂本遼に接触した幾多の文学者の直筆書簡や生原稿その他。
みな時の流れをしみ込ませて、しかしその時の文学者の息づかいを感じさせるものでした。
これだけのものに、もう再び会えることはないでしょうね。
坂本の最後の仕事といってもいい児童雑誌『きりん』も貴重な資料が並べられていて、あの時代の兵庫県の詩人の無私の仕事を思わずにはおれませんでした。
今から思えば日本の児童文学の歴史にとって、とてつもない大きな仕事だったと思います。
ああ、凄い。坂本遼、竹中郁、足立卷一。
この写真(昭和50年・第5回たんぽぽ忌)は、イベントルームで上映されているものをわたしが写したもの。
左から足立卷一、竹中郁、草野心平。
帰りに、姫路の古書店「続・書肆風羅堂」さんに寄ってみましたが、お休みでした。
残念。
『宮っ子』3月号が出ました。
特集記事が「浜脇地域」ということで、この写真は浜脇地域の中のお店かと思いましたが違いました。
平木地域の「お茶の間ぷちだがしやさん」で、NPO法人にしのみや次世代育成支援協会が運営。ボランティアスタッフがお迎えするとのこと。
表紙の構成がちょっとチグハグかな?
交差点の上空の電線の模様も魅力的なのですが、この高架の幾何学模様は迫力があります。
第二回めはあるのでしょうか?
imamuraさんの本。 『完本・コーヒーカップの耳』面白うてやがて哀しき喫茶店。
以倉紘平さんが主宰する詩誌『アリゼ』225号が届きました。
これに、頼まれて朝倉裕子さんの詩集『雷がなっている』の書評を書かせていただきました。
美しい雑誌『アリゼ』に載せて頂いてありがたいことでした。
その主宰者、以倉さんの詩です。
「嵯峨さんの最後の言葉」です。
いいですねえ。以倉さんの詩はわたしの心にしっくりと沿います。
今、合間合間に読ませてもらっている『以倉紘平全詩集』(編集工房ノア刊)が素晴らしいです。
今、五分の三ほど読んだところですが、慌てずにゆっくりと読んでます。
児童詩誌「きりん」を復習しています。
これはわたしが所持する「きりん」の資料の一部。
現物の「きりん」11冊です。
昭和23年から46年までの23年間にわたり220号まで発行された子どもの詩と作文の本。
井上靖が「日本でもっとも美しい子どもの本を」と言って、当時の関西の詩人が欲得抜き、手弁当で編集発行したもの。
井上靖40歳、竹中郁43歳、足立卷一34歳、坂本遼43歳、尾崎橘郎34歳。
戦後荒廃した世相の中で奇跡のように美しい児童書が発行されたのでした。
わたしの小学校時代、用海小学校にも届けられ、各教室に置かれてありました。
北海道から九州まで、全国の子どもたちの詩や作文が載っています。
教師の協力なくてはできないこと。
そうして何万もの作品が残ったのでした。
今の時代では絶対に無理でしょう。
あの時代を井上靖は次のように言っています。
《私は終戦の20年8月から23年いっぱいくらいまでを、つまり終戦後三年半ばかりの間を、狐に化かされたような奇妙な季節だと思っている。その頃私の周囲にいた人全部が、多かれ少なかれ、狐に化かされていたのではないかと思う。
わたしはこの奇妙な、物の怪に憑かれたような三年半の時期を大阪で過ごした。(略)私が、竹中郁氏や足立卷一氏と繁く往来し始めたのはこのころである。竹中氏も足立氏も、やはり正常ではなかった。狐に化かされるか、物の怪に憑かれているか、でなければ多少得体の知れぬ病気に罹って発熱していた。》
わたしはその時代の子どもだったのです。わたしの教師も作文教育に熱心でした。特にわたしには「毎日作文を一つ書いてきなさい」と言った人でした。
さて「きりん」ですが、この号を見て下さい。
昭和38年3月号です。このころは充実していて、60ページ余りあります。
こどもの詩と綴り方と詩人の文章が載ってます。
竹中郁、坂本遼、足立卷一、灰谷健次郎、今江祥智、長新太など。
その中の竹中郁のページです。
一年生の、もとやまようこさんの詩を題材に詩の指導を懇切丁寧にしています。
ここに出てくる「坂本先生」というのは詩集『たんぽぽ』で有名な詩人、坂本遼のことです。
今、姫路文学館で「坂本遼展」が行われていますが、その坂本遼です。
この時代の「きりん」に関わった子どもたちは幸せだったと思います。
教師も充実感を味わったことでしょう。比して、今の教育現場はどうなんでしょうねえ。決して幸せとは言えないと思いますが。
ある詩の雑誌を読んでいたら、こんな言葉が載っていた。
ある詩の一部である。
「自身に激を 飛ばしただけの」と。
この「激」だが、これに「飛ばす」と続けば正しくは「檄」でなければならない。
しかしその場合、決して自分に飛ばすものではない。
人に(多くは意見を同じくする者に)決起を促す文書のこと。「檄文」などと使う。
スポーツ新聞がよく使っていた。「星野監督が檄を飛ばした」というように。多分記者は「激しく励ます」という意味で使ったのだろう。でもこれは大間違い。
さすがに最近は「檄」を使わずに「ゲキ」とカタカナにしているが、やはり誤用といっていいだろう。
さて、この詩の場合だが、作者は分っていてこう書いたのだろうか。だから「檄」ではなく励ます意味で「激」という字を使ったのだろうか。それならスポーツ新聞に習ったことになるが。
詩の前後を読んで考えて見たが、よくわからない。作者に聞くほかないか。
今朝の神戸新聞「読者文芸」の特選詩です。
神戸新聞さん、遠山さん、記事拝借お許しを。
遠山耕二さんの「おばちゃん」ですが、いいですねえ。
ちっとも詩人ぶらずに平明な言葉で書かれています。
それでいて、無駄な言葉がなく、読む者の胸にじんわりと伝わります。
この詩を特選に推してくださった選者の時里さんに感謝です。
妻にも読み語ってやりました。
新聞の投稿欄はやはりこういった生活詩が主役にならないといけないと思うのです。
難しい詩人語が多用されるような詩は多少優れていてもこの欄にはそぐわないと思うのです。
もちろん、優秀な詩を落とす必要はないと思いますが。
昔、選者をしておられた足立巻一先生は、この欄で「優れた詩を落としたことはない」と言っておられました。
でも足立先生は、わたしが思うに生活詩を優先しておられたように思います。
昨日、足立卷一先生の色紙の事を書いた。
これは村上翔雲師が、足立先生が催したチャリティー即売会で購入したものだろう、と。
そのことを裏付けるようなパンフレットをわたし所持している。
昭和59年に催された「編集工房ノア創立十周年記念 10年の歩み展」。40年ほども昔。
これの「ごあいさつ」を足立先生が書いておられる。
「この催しは私が出しゃばって企てたものです。」と。
そして「著者色紙展示即売」の説明書きにはこんなことが書かれている。
足立先生はこんなことをしておられたのだ。本当に情の深い人だった。
これであの村上翔雲師の色紙のいきさつも想像できるというものだ。
わたし、この企画展に行きましたが、その時の恥ずかしいエピソードは書かない。
『完本・コーヒーカップの耳』面白うてやがて哀しき喫茶店。