今日、神戸で足立巻一(けんいち)先生に関する催しがあった。
それはそれで良かった。
だが、2006年にも「原田の森ギャラリー」で足立先生の催しがあり、その時の講師は宮崎修二朗翁だった。お二人は戦後すぐからのお付き合いがあったのだ。あの須磨寺での足立先生の葬儀の時、棺の一端を担がれたのも宮崎翁だったのをわたしは覚えている。
その講演をわたし録音し、後にテープ起こしをし何冊かの冊子を手づくりした。
それを宮崎翁に呈上したら、翁は自費で増刷なさりその年の「夕暮れ忌」で、出席者全員に呈上された。
あれは貴重なものだと思う。
もう一度作りなおしてもいいだろう。
さて、その2006年の宮崎修二朗翁の講演だが、終わって打ち上げの会がJR灘駅前の喫茶店(名前失念)で行われた。伊勢田史郎さんの娘さんご夫婦が経営なさっていた。
そこで参加者が順にショートスピーチをした。わたしもした。
そして、最後に宮崎翁がマイクを持たれた(マイクはなかったかな?)。
「あなたたちは何ですか!」と怒気荒く口を切られた。
「聞いていたら、あなたたち詩人は、自分のことばっかりしゃべっておられる。足立さんをダシにして自己宣伝ばかりだ。足立さんはそんな人じゃあなかったですよ」などと。座はシーンとなった。
足立先生は自己宣伝をする人ではないのはもちろんだが、実は宮崎翁が最も嫌うことだったのだ。翁、さぞかし不愉快だったのでしょうねえ。兵庫県現代詩人協会会員を前にして厳しい叱責だった。
後を受けて伊勢田さんが話された。
「今の宮崎さんの話は大切なことです。わたしたちは心しなければなりません」というようなことを話された。
あの時のことをわたしは忘れない。
宮崎翁の講演をわたしは録音したのだが、あの二次会をも録音しておけば良かったなあ、と後で思ったものだった。
わたしが心から尊敬する兵庫県の文人は、足立巻一先生、杉山平一先生、そして宮崎修二朗先生の三人だが、どなたも自己宣伝をする人ではない。わたしも少しでも近づきたいのだが難しい。
「宮水ジュニア・将棋教室」第5回目に行ってきました。
用海公民館です。
写真は、まだ始まる前です。
早い子は30分前に来てます。
今日一番の子は上が原からでした。
遠い子ほど早いですね。遅刻しないようにと早くに出てくるんですね。
そんな子のためにわたしも早めに行き、詰将棋の問題を出してやります。
難しいのではなく、なるべくパズル的な楽しいものを。
今日は面白かった。
いつもだが、わたしは一生懸命に講義をします。
結構疲れます。
終わり頃に「ああしんど」とつい本音が口から出てしまった。
そして言い訳のように「ima〇〇さん、何歳やと思う?」と聞いてみた。
そしたら、「50歳」とか「60歳」とか言ってくれた。
「ありがとう」と言っておいた。
あ、それから、最後に
「将棋の本、買ってもらってるか?」と尋ねた。
すると3,4人がまだ買ってもらってないと。
前から一冊は買ってもらうようにと言ってあるのだ。
「親に土下座してでも買ってもらって下さい。図書館にもありますが、自分のを一冊でも持って下さい。それを繰り返し繰り返しやってみるのです。もし頼んでもダメならima〇〇さんに電話してもらって下さい。電話番号知ってるね?」
するとみな「サンザンオヤクロウ」と覚えている。
「親はみな自分の子どもには幸せになってもらいたい。将棋をすることはそれにつながる。集中力、決断力、想像力、忍耐力など、生きて行く上で役に立つことが身につくんや。いっつも言うてるやろ。そのことを話して親を説得してください。それでもダメなら電話してもらって。ima〇〇さんが説得してあげる。それでもダメなら、その親を勘当して下さい。親失格やから」などと話した。
すると後ろで聞いておられた一人のお母さんが手を叩いておられた。
『多喜さん詩集』を読んでいるが楽しい。
2篇、紹介しましょう。
「犬」
炎天の道の辺で
うんこをしている犬
少しばかりのぞいているのだが
うんこはかたくて なかなかでてこない
彼はうらめしそうに 蝶々をながめながら
排泄と取組んでいた
「慣」
雄鶏の首をひねる
ぎょろりと目をむいているそいつの 羽毛をむしる
じゃけんになれたそのしぐさ
手にあまった抵抗が
急に抜ける
私はとまどう
神さまこれでよいのでしょうか
雌鶏たちは
相かわらず玉子を産んでいる
読み終えて、ニンマリしてしまう。
なんともいえない気息が見事。
昨日、大阪の孫の所へ行った。
途中、野田の手前にお地蔵さんがある。
これまでも何年も気になっていていつかお参りをと思っていたのだった。
で、今日は少し余裕があったので車を止めてお参りした。
そして孫たちの家に行き、ひと時を過ごして帰りのことだ。
野田駅南の交差点の手前、左へのゆるいカーブに差し掛かった時、右側車線を走っていた車が突然左折ウィンカーを点滅させながら直前に割り込もうと入って来た。どうもわたしの車が見えてなかったらしい。わたしはクラクションを鳴らす余裕もなく、それでも左を確認しながら左へ急ハンドルを切った。スピードを出していなかったからよかった。また、割り込んできた車もわたしの車に気付いてあわてて右へハンドルを切った。危うく難を逃れた。肝を冷やした。しばらくして家内と、「先にお地蔵さんにお参りしておいたから良かったのかも」と話したことだった。その相手の車は京都ナンバーで若い女性が運転しており助手席にも女性だった。どうやらおしゃべりに夢中だったのかも?それとも、その右車線は右折車線に進むことがわかり、直進しなかればならなかったので急ハンドルだったのかも。その後もわたしの車と並走するように43号線へ入って行った。
・
さて、その地蔵さんである。
43号線から野田へ向かって北へ上がって行くと「千鳥橋」交差点がある。そこをもう少し北上すると野田の手前左に鎮座する。
きれいに掃除が行き届いていた。熱心に世話をする人があるのだろう。
立派なお花もお供えされている。
そして冬装束だ。
ジャンバーまで着せてもらって。
縁起が書かれている。←クリックして下さい。読めます。
昭和26年建立だから、まだ比較的新しいお地蔵様だ。
常連さんには挨拶状までお配りしたのでした。
ところが、「もうちょっとやってえなあ」のあたたかいお言葉に甘えて、未だに閉めてしまわずに、週に三、四日午前中だけ開けています。
その二年半前、店を閉じるにあたって一冊の冊子を手づくりしました。
『喫茶・輪』です。
一昨年お亡くなりになった杉山平一先生が「詩集よりよほどいいですなあ」と変な褒め方をして下さったのでした。...
それを神戸の詩人鈴木漠さんにもお送りしたら新聞に取り上げて下さり、そのさい値段を決めて下さいと言われました。もとより、売るつもりのないものでしたので、躊躇しましたがどうしてもということで「えいやっ!」と1000円と言いました。すると新聞を読まれた人から思いがけずたくさん注文が入り、慌てて手づくりに励んだものでした。
それ以来、奥付けに頒価1000円と記しています。
ということで、その後も、こんな拙い手づくりのものを1000円でお頒けしています。
74ページありますので結構手間がかかるんですよね。
このほど在庫がまた無くなったので、新たにちょっと作りました。
さて、杉山先生がおっしゃった「詩集よりよほどいいですなあ」の褒め言葉の意味だ。
本音はどうだったんでしょうか?
① 「あなたがこれまでに出された詩集よりいい」
② 「世間に出ている詩集よりいい」
③ 「この本の作品が、詩に限られていないのがいい」
もっと他にも意味があるかもしれない。
残念ながらわたしは真意を聞くことが出来なかった。
因みに、わたしもこの本を詩集とは名づけていない。単に『喫茶・輪』である。大抵の人がこの本を詩集と見ておられるが、先生は見抜いておられたのだ。
かねて注文していた詩集『多喜さん詩集』(井上多喜三郎)が届いた。
うれしいなあ。
この人の詩集は何年か前に近江の詩人、森哲弥さんに一冊お借りして読んだことがあるが良かった。
この詩人、実は交通事故で亡くなっておられる。
悲劇の人だった。
生前はわたしが尊敬する足立巻一先生も交流があり、そのことブログに書いたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20111216
また、竹中郁さんも交流があり、それは『消えゆく幻燈』に載っている。面白い随筆で、初出は昭和51年6月「骨」とある。
さて『多喜さん詩集』だが、限定536部とあり、わたしのには102の数字が打ってある。
借りているガレージだが、前にも書いたがオーナーが売りに出されている。
家のすぐそばで助かっているので、ここがなくなると困ってしまう。
早い場合は2月中で解約になると。
今のところまだ売れていない。
売買の時には隣との境界を両者立ち合いの上はっきりさせねばならないようだ。
その隣の一方がお地蔵さんの敷地。
ここが境界です。
地蔵さんの地権者は事情で二人連名になっている。
大江(後日宇之介さんと判明)さんともうお一人は大村久太郎さん。
どちらもご生存なら150歳ぐらいにはなっておられる。
ということで、相続が広がり、今やどうなっているものか?
で、地蔵さんの世話人代表のわたしに相談があり、わたしが知っている、大村久太郎さんの相続人のお一人を紹介した。権利書もお持ちだ。が、いまさら自分の土地でもないので(地蔵さんの土地だから)関わりたくないと。ましてわざわざ出かけて立ち合うなんてしたくないとのこと。
さて不動産屋さんはどうされるのかなあ?
また法律的にはどうなんでしょう。どうしても立ち合いが必要なんでしょうか。ここの場合、権利書が大村さんと大江さんの二カ所にあるのではないでしょうか?お二人の立ち合いが必要なのでしょうか?それならなかなか実現しないのでは?その場合の法律的な処理は別にあるのでしょうか?あるんでしょうね。そうでないとこの土地は永久に移動しないことになってしまうかもしれない。それなら今の駐車場のままでいいのですが。
BSジャパンで「美の巨人たち・逸見東洋」の再放送があると、ある人から教えて頂いた。
見逃していたのでありがたい。
1月22日(水) 夜10時54分~ 美の巨人たち 逸見東洋『風神雷神図堆朱盆』
番組内容
今日の作品は名工・逸見東洋の『風神雷神図堆朱盆』(明治44年作)。横30cm・縦24cm・厚さ3cm、菱丸形の香盆です。中央には風神雷神、縁にはキリン、鳳凰、龍などの聖獣が彫られています。漆を塗り重ねて形にし彫刻を施した堆朱、その何層にも輝く色調は至高の肌合い。何より圧倒されるのは掘り込まれた繊細で緻密なディティール。わずか30cmの盆の完成に6年費やした訳とは…?東洋の超絶技巧の数々に迫ります。
ナレーター
小林薫
音楽
<オープニング・テーマ曲>
「The Beauty of The Earth」
作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン)
唄:ジョエル・タン
<エンディング・テーマ曲>
「終わらない旅」
西村由紀江
昨日は姫路へmioriに会いに行ってきました。
しばえらく会わないと、思い出すのに一瞬の間があるのですが、今回は正月2日以来ですので覚えていてくれて笑顔で迎えてくれました。
しっかりしてきていて、大分おしゃべりできるようになってました。
もうすぐ二歳です。
何でもよく食べる子なのですが、お蕎麦屋さんに行った時のことです。
カキご飯を食べてお腹が大きくなったのでしょう。「もういらん」といった感じで横を向いたのですが、おそばを口に入れてもらうと、今度はむしゃぶるように食べだしました。おいしかったのです。まだいくらでも食べられそうでした。ということで、mioriは何でも食べるというのではなかったのでした。やはり味をわかって食べているのでした。
わたしもおそばをいただきましたが、息子が連れて行ってくれたこのお店のおそばはホントにおいしかったです。出石そばに負けないぐらい。「石挽きそばの店・御座候」というお店でした。
店に立派な額が飾ってありました。
姫路の画家、岩田健三郎さんの絵です。
このお店に来られた時に書かれたもののようです。
永井ますみさんから詩誌二冊。
一冊は「リヴィエール」132号。
その中の永井さんの作品。
「言申さずて」です。
そうですか、そんな昔にも徴兵制のごときものがあったのですか。いつの世も徴兵制は悲しいものです。
今日の夕刊に、小野田寛郎さんがお亡くなりになったのだと。この人は職業軍人だったでしょうから徴兵ではなかったかもしれないが…。その前の横井庄一さんは多分徴兵だったんでしょうね。
そういえば、この前お亡くなりになった「火曜日」同人の村中さんは「ぼくはコッカという言葉が大嫌い」とはっきりおっしゃっていたことがある。
もう一冊は「現代詩神戸」244号。
これに岩川昌子さんが「ふる里」と「夢」という作品を寄せておられる。
優しい詩ですね。
実は彼女は、以前はもっと切り口の鋭い詩を書いておられた。透明感のある作品は深みがあってレベルの高いものだった。
ところが、数年前に脳梗塞を患われて、詩を書くことも難しくなるのではないかと思われた。でも復活してこられた。まだまだ健康とはいえないのでしょうが、こうして最近詩を発表できるまでになられた。
彼女はその前に心臓病もお持ちだ。さらに乳児のころ股関節脱臼という不運にも見舞われておられる。厳しい人生を送ってこられた人だ。
この人については、もうちょっとここに書いておきたい。
わたし、月刊タウン誌「kOBECCO」にページを持たせて頂いているが、著者紹介の欄に「風媒花」同人と載せてもらっている。
その「風媒花」の編集発行人が岩川昌子さんだった。彼女が病気になってから発行が5年以上も中断したままになっている。しかしわたし、紹介欄には「火曜日」とともに「風媒花」を消さずに載せてもらっている。いつかまた彼女に元気になってもらって編集発行をしてもらいたいと思っているからだ。しかし当時の同人の何人かは亡くなっておられる。辛いですね。