Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

十一人の侍

2014年11月13日 00時24分40秒 | 邦画1961~1970年

 ◎十一人の侍(1967年 日本 100分)

 英題 Eleven Samurai

 staff 企画/岡田茂、天尾完次 監督/工藤栄一 脚本/田坂啓、国弘威雄、鈴木則文 撮影/吉田貞次 美術/塚本隆治 音楽/伊福部昭

 cast 夏八木勲 宮園純子 里見浩太朗 大川栄子 西村晃 近藤正臣 大友柳太朗

 

 ◎集団時代劇の骨頂

 つくづくおもうんだけど、工藤栄一には最後の作品として時代劇を撮らせてあげたかった。

 工藤さんには少なくとも5本の時代劇の傑作がある。『十三人の刺客』はいうにおよばず『大殺陣』『八荒流騎隊』『忍者秘帖 梟の城』そしてこの『十一人の侍』だ。年を食ってから現代劇ばかりになり、人殺しの話を撮ってきて、途中で服部半蔵を演出してヒットは飛ばしたものの、堂々とした大作時代劇は撮れず仕舞いだった。

 おそらく、寂しかったろう。

 だって、それだけの腕前はあったんだから。

 工藤さんは役者からもスタッフからも信頼される人だった。なんとなく薄汚くて、それでいてかっこよくて、どことなくフクロウに似てた。まったく気取りのないように見えるんだけど、実はとっても気障な性格だった。楽しいことが好きで、お酒とタバコもまた好きで、濡らしの演出も、逆光のアングルも、時代劇で鍛えられたものだ。だから撮らせてあげたかった。

 この作品の凄さは雨にある。街道を封鎖して小さな宿場に追い込むのは工藤さんの得意な展開で、なにもこの作品だけのものじゃないし、もしもこの作品にいかにも工藤さんらしい点があるとすれば、それは雨の宿場とその郊外での戦闘だろう。研ぎ澄まされたモノクロームの世界で、人間が吠え狂いながら戦う図は実に見事だ。

 この時代、東映の時代劇はきわめて特色があった。集団戦という独自の戦闘を創り上げたわけだけど、それはなんだか侠客の抗争にも似ているし、戦争における歩兵戦にも似ている。むろん、戦国時代の合戦絵巻はそれこそ集団戦の最たるものだけど、どちらかといえば清水の次郎長に近い。それは、企画を担当してた岡田茂と天尾完次の指向によるものかもしれないんだけど、たしかなことはわからない。

 ただ、そうしたプロデューサーたちと志が合っちゃったんだね、工藤さんは。

 だから、この傑作が生まれたんだろな~と、ぼくはおもってるんだけどね。

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アナライズ・ユー

2014年11月12日 14時03分44秒 | 洋画2002年

 ◇アナライズ・ユー(2002年 アメリカ 96分)

 原題 Analyze That

 staff 監督/ハロルド・レイミス 脚本/ピーター・スタインフェルド、ハロルド・レイミス、ピーター・トーラン 製作総指揮/バリー・レヴィンソン、クリス・ブリガム、レン・アマート、ブルース・バーマン、ビリー・クリスタル 撮影/エレン・クルス 美術・ウィン・トーマス 衣装デザイン/オード・ブロンソン・ハワード 音楽/デイヴィッド・ホルムズ

 cast ロバート・デ・ニーロ ビリー・クリスタル リサ・クドロー キャシー・モリアーティ

 

 ◇続編とは知らずに

 観ちゃった。

 ところが、それなりに楽しめちゃったんだからまあ好しとしよう。

 でもまあ、それだけ一篇一篇が独立した話になってるわけで、観てる分にはなんの違和感もなく作られてるあたり、さすがだし、この続編だけバリー・レヴィンソンが制作総指揮になってるっていうのも理由のひとつなのかもしれないね。

 筋立てそのものはマフィアをあつかったコメディなんだけど、見ものはもちろんロバート・デ・ニーロとビリー・クリスタルのやりとりに尽きる。たとえば、デ・ニーロは収監されていたときに暗殺の危険を感じて、精神的な病に陥ったふりをして病院に収容され、そこへビリー・クリスタルが呼ばれて本当に精神に支障をきたしているのかどうかを診察することになるんだけど、このときのデ・ニーロの空っとぼけぶりが凄い。

 ぼくは実をいうとデ・ニーロの映画はあまり好んでみることはない。うますぎるからだ。もうあんたの上手なのはわかってるからさ、とでもいいたくなっちゃうんだよね。だから、ついつい見逃したりしちゃうんだけど、観れば観たで、この作品みたいに感心する。

 映画のロケ現場では、その道のプロに来てもらってあれこれと演技指導してもらうことは少なくない。でも、マフィアの素振りの指導となると、ほんまかいな、といいたくなっちゃう。邦画ではほとんどありえないことだし、まさか現在のハリウッドでそれはないだろうとかおもうんだけど、ま、コメディだからそういう設定もありだろう。

 デ・ニーロのコメディはたいがい、口をへの字にして苦虫を噛み潰したようなお得意の顔を見せるんだけど、もちろん、今回もそうだ。マフィアの親分がいかにも親分然として我儘勝手にふるまう。それにストレスのかたまりとなって対処していかないといけないのが、父親の葬儀もうまく出せず、FBIの捜査官のミニスカートにたじたじとなるパニック障害に病むビリー・クリスタルなわけだけど、そうしたやりとりだけで終始したといえばそうかもしれないね。

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L.A.大捜査線 狼たちの街

2014年11月11日 00時44分16秒 | 洋画1981~1990年

 △L.A.大捜査線 狼たちの街(1985年 アメリカ 116分)

 原題 To Live and Die in L.A.

 staff 原作/ジェラルド・ペティーヴィッチ『L.A.大捜査線』 監督/ウィリアム・フリードキン 脚本/ウィリアム・フリードキン、ジェラルド・ペティーヴィッチ 撮影/ロビー・ミュラー 音楽/ウォン・チュン

 cast ウィリアム・L・ピーターセン ウィレム・デフォー ジョン・パンコウ ディーン・ストックウェル

 

 △主人公の不在

 いったい、フリードキンはなにがいいたかったんだろう?

 所詮、この世には善悪なんてものはなくて、みんな同じ穴の貉だとかいいたかったんだろうか?

 偽札をつくる人間も、それを追いかける人間も、弱みを握られて警察に協力する人間も、色香に騙される人間も、どいつもこいつもみんな性悪にできてて、最後には自分の欲望にのみ忠実に行動する。人間なんてそんなもんさっていう諦観を投げかけようとしたんだろうか?

 たしかに、さすがはフリードキンとでもいえるようなカーチェイスはあるし、銃撃戦も同様だ。地に足のついたアクションであることは疑いないんだけど、どうもね~ウィリアム・L・ピーターセン演じる主人公の立場もいまひとつよくわからない。シークレットサービスとかいっているんだけど、どうも財務省の査察官みたいな感じだし、捜査の仕方を観てるとFBIなのかロス市警なのかてな感じに見えてきたりするのは、たぶん、ぼくがアメリカの警察機構について熟知してないからだろう。

 ただまあ、いずれにせよ、偽札犯を追いかけるというよりは、この作品で名をあげたウィレム・デフォーに相棒を殺されたことへの復讐といった雰囲気が濃い。

 つまりは個人的な復讐劇に徐々に変わっていくわけで、ウィリアム・L・ピーターセンの利用できるものは保護観察中の女だろうが同僚だろうがおかまいなしだし、さらには強盗だって人殺しだって同様だ。なんでここまで突っ走るのかわからないくらいなんだけど、こういう暴走していく人間の末路をフリードキンは容赦なく用意している。ロッカールームの狭苦しい空間で銃撃戦が始まるのかとおもいきや、一瞬にしてピーターセンの顔面が鮮血に染まる。顔を撃ち抜かれて即死するからで、いったいどこの世界の映画にクライマックスまでひっぱった主人公が一発で殺されるんだいって話だ。

 でも、こういう信じられないようなリアルさを、フリードキンは求めたんだろうけど、まあ、この作品には思い入れのつよいファンもいるようで、世の中、ほんとに好き好きなんだな~って気がするわ。

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おおかみこどもの雨と雪

2014年11月10日 17時38分38秒 | 邦画2012年

 ◇おおかみこどもの雨と雪(2012年 日本 118分)

 staff 原作・監督/細田守 脚本/細田守、奥寺佐渡子 キャラクターデザイン/貞本義行 美術監督/大野広司 衣装/伊賀大介 劇中画/森本千絵 音楽/高木正勝 主題歌/アン・サリー、作詞:細田守、作曲:高木正勝

 cast 宮崎あおい 大沢たかお 菅原文太 染谷将太 林原めぐみ 谷村美月 春名風花 麻生久美子

 

 ◇富山に行きたい

 いまさら筋立てをうんぬんするのもなんだから、やめとく。

 で、観てて、なんとなくおもったのは国立に行ってみよかな~と。一橋大学って東大とならんで大学の校舎の見本みたいなところがあるじゃん。だからこの際、出かけてみてもいいかなと。そんなことおもってたら、富山にも行ってみたいな~とおもえてきた。劇中、花とこどもたちが棲むことになる古民家は、富山にあるらしい。雪が暮らしていくであろう山も富山だそうな。富山地方鉄道の上市駅にある観光案内所を訪ねれば、たいがいのことはわかるんだそうな。へ~ておもった。いまや、この国の観光は、アニメを中心に回ってたりするんだろか?

 たしかに、映像はたいしたもんだ。

 チングルマとかの花々や雨やら雪やらといった自然の景色はほんとうによく描けてるし、溜め息が出そうになる。でもさ、これは主観の相違だからなんともいえないんだけど、貧乏女子大生の花はいったいなんのために大学に通ってたんだろね。ぼくが見落としてるのかもしれないけど、将来はこんなことをしたいとか、こんなふうになりたいとか、そういう夢や憧れみたいなものはあったんだろうか。どうもそれがいまひとつわかんないんだよね。それともうひとつ、花は実家っていうか故郷に帰れない事情があったんだろうか。彼女の大学生になるまでの暮らしぶりがまるで見えてこないのはなぜなんだろう。

 それは花の相手の狼にしてもおんなじことがいえるんだけど、なんで都心に出てきてたんだろう。国立はたしかにいいところだけど、ふたりが暮らし始めるのは善福寺川の流れてる西荻あたりらしく、吉祥寺とかとなりだし、けっこうな都会だ。日本狼の末裔ならもっと山奥にいて、人里には近寄らないんじゃないかなと。実際、雪は野生にめざめて山へ入っていくわけだしね。

 おそらく、ぼくがおもうに、彼は人狼の村から都会に憧れて出てきた青年なんだろう。なんだか手塚治虫の『バンパイア』みたいだけど、彼の生まれた村には、どちらかが人狼の両親がいて、おおかみこどもの兄弟姉妹がいて、やっぱり誰か人狼の祖父母や曾祖父母やらがいないと、とてもじゃないが血脈を維持できない。どういう血脈になってるのかわからないんだけど、人狼の一族はともかく年頃になると人里におり、人間あるいは人狼と出会い、子孫をつくるのが慣習になってるのかもしれないね。そうじゃなければ、彼が国立に現れることはできない。

 ただ、ぼくは『美女と野獣』とか観てもおもうんだけど、女の人って凄いな~と。相手は、人狼だぜ。それも、まぐわうときには狼になってるわけで、劇中もそういう画面になってるけど、いや、まじめな話、いくら好きでもぼくにはできない。そんな無粋なこというんじゃねえよとかって怒られそうだけど、観てる最中からそれは気になってた。こういう人間はファンタジーは観てはいかんのかもしれないが、観ちゃったものは仕方がない。つまりは、花も狼も過去がよく見えず、花については将来もよく見えない。そのあたりはわざとぼかしてあるんだろうけど、ぼくみたいに気になっちゃう人間もいたりする。

 ところで、花を観てると、アニメっていうか、漫画にもよく登場する、ファン層にとっての理想的な女の人ってこんな感じなんだろかっておもえてくる。いや、ぼくは昔からこういう健気な女性は嫌いじゃない。常に朗らかで無心で無欲で、つよいお母さんになっていこうってする女性は、好きだ。いや、好きだった。というのは、けっこう、気が強いし、頑固だし、わがままじゃない?かと。なんかね、アニメ・キャラの普遍さを感じちゃうのよ。

 ま、そのあたりは余談。

 この作品を観ててもうひとつ感じたのは、差別っていう主題だ。

 人間は差別をする生き物だ。肌の色、民族、宗教、偏差値、もうありとあらゆるものが差別になる。

 ましてや、人狼なんてのは忌避される骨頂のような存在だから、当然、人里はなれたところで子供を育てたいとおもうだろう。つまりは、差別されるおそれのある人間関係っていうめんどくさいものから避難したっていうことになる。この捉え方っていうか受け取り方が正しいとはおもわないけど、ともかく花と子供は引っ越した。ほんとなら父狼の生まれ育ったところに行けばいいのに、それは話してもらえないうちに死んじゃったってことなんだろか。ま、それはいいとして、人間は差別されない世界に棲みたいと願う。人狼と交婚して、おおかみこどもを産み落とした女性としては、自分だけでなく子供たちもまた差別の対象とされるおそれがある以上、できるかぎり正体のばれないところに棲むしかない。このあたり、明るさと朗らかさに包まれてはいるし、自然の中ですくすく成長していくさまを見ることができるから、なんとなく素通りできちゃうんだけど、視点をちょっとずらしてみるとかなりつらいものがある。こどもたちは自然はあるけど都会はなく、不便さはあるけど便利さはなく、さまざまな動植物とは分け隔てなく接することができるけど、いろんな人間どもとは腹を割って話せないし、恋愛についても草平のような理解者が現れないかぎりままならない。だから、雪は山へ入らざるをえなかったのかもしれないね。

 つらいなあ。

 ぼくがこの作品で感じたひとことは、それだった。

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カティンの森

2014年11月09日 00時12分37秒 | 洋画2007年

 ◇カティンの森(2007年 ポーランド 122分)

 原題 Katyn

 staff 原作/アンジェイ・ムラルチク『死後 カティン』 監督/アンジェイ・ワイダ 脚本/アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ 撮影/パヴェウ・エデルマン 美術/マグダレーナ・ディポント 衣裳デザイン/マグダレナ・ビェドジツカ 音楽/クシシュトフ・ペンデレツキ

 cast マヤ・オスタシェフスカ ダヌタ・ステンカ アグニェシュカ・カヴョルスカ アンナ・ラドヴァン

 

 ◇1943年4月13日、カチンの森虐殺事件報道

 たしか歴史の授業では「カチンの森」と習ったような気がする。

 だからぼくはずっとカチンで通してきたから、それに従う。ま、それはともかく、カチンの森で虐殺に遭ったポーランド国軍の将校と兵士らの数は今もってよくわからない。4421人と公式な文書にはあるみたいだけど、それが真実だとはかぎらないし、実際、ソ連が出した射殺命令書の人数はほかの地域のと合わせると25,700人いて、その内21,857人が殺害されたらしい。けど、それは氷山の一角で、戦時中、ロンドンのポーランド亡命政府はソ連に対して約25万人ものポーランド軍兵士と民間人が行方不明だと告げ、その消息を質している。けど、ソ連はまったく知らぬ存ぜぬを通した。ひでえ話もあったもんだ。

 その恐るべき実態のかけらとなったのがカチンの森の虐殺死体発見で、これについてアンジェイ・ワイダが渾身のおもいで撮ったのがこの作品らしい。まあ、ワイダのインタビューとかで父親がカチンの森の犠牲者であったとか、けれど自分が撮ろうとしたのは個人的なものではなくカチンを核にした当時の実際と祖国ポーランドの戦中戦後史なのだというような話は、ここでは書かない。だって、もういろんなところに出てるしね。

 で、映像なんだけど、ひたすら重かった。

 象徴的だったのが主人公の女性ふたり、マヤ・オスタシェフスカとダヌタ・ステンカが国境となってる川の上ですれちがうところだ。マヤは夫に会うためにソ連の支配地域へ、ダヌタは大将となっている夫の消息をたしかめるためにドイツの占領地域へ向かうんだけど、もちろん、移動しているのは彼女らだけじゃなくて、橋の上もたもともそこへ至る道もどこもかしこも難民があふれてる。難民たちはドイツとソ連によって分割された祖国の中を右往左往するだけで結局どこにも行き場がない。こんなめちゃくちゃな話はなく、いったい、当時のナチスやソ連はなにをしたかったのかよくわからない。ソ連の虐殺にいたっては戦勝国という隠れ蓑を着たまま、20世紀の終わりまで秘密にされてきた。マヤとダヌはそれぞれがその秘密を知らぬまま、ひたすら夫の帰りを待つことになる。これが誇り高く描かれてはいるんだけど、いやもう重い。重量級のぐったり感だ。

 ワイダはさすがに上手いな~とおもうところももちろんあった。マヤの夫が手帳にいろいろと書き留めていることで、これが事件の直前まで書き記されているため、手帳の回想というふしぎな視点をもたらしてくれる。それとセーターの使い方が上手で、発掘された死体の中にセーターを着ている兵士が発見されたんだけど、それは夫ではなくセーターの持ち主だということで、夫の消息は未確認とされる。このあたり、伏線もあってよくできてる。

 まあ、なんというか、とにかくリアルに徹してるのはひとりひとりの兵士を処刑していく件りとかもそうで、マヤの曾祖父もまたカチンの犠牲者だったらしいから、スタッフ・キャストともに凄まじい執念をもって撮り上げたんだろうってことはほんとによくわかる。観てる方はけっこう辛いものはあったけどね。

 でも、おもいきり、ちからは入ってた。

 監督となったからには撮らざるをえない映画ってのがあって、ことにワイダはポーランド史と共に映画人生を送ってきたようなものだから、この映画に行きついたのはまったく無理もないし、それだけ堂々とした大作だったことはまちがいない。

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水曜日のエミリア

2014年11月08日 01時55分08秒 | 洋画2009年

 ◇水曜日のエミリア(2009年 アメリカ 102分)

 原題 Love and Other Impossible Pursuits

 staff 原作/アイアレット・ウォルドマン『The Other Woman』 監督・脚本/ドン・ルース 製作総指揮/ナタリー・ポートマン、アビー・ウルフ=ワイス、レナ・ロンソン、カシアン・エルウェス 撮影/スティーヴ・イェドリン 音楽/ジョン・スウィハート

 cast ナタリー・ポートマン スコット・コーエン ローレン・アンブローズ リサ・クドロー

 

 ◇僕はイサベルの生まれ変わりにいつか会うよ

 簡単にいってしまえば、不倫相手と結婚したとき、その連れ子といかにして仲良くなってゆくか、という話だ。

 でも、そんな他愛ない話に過ぎないんだけど、ナタリー・ポートマンの実生活とどこかダブって見えかねないところがあるものだから、ちょっとばかり別な意味でのデバガメ心もよぎったりする。でもまあ、そんなことはどうでもよく、世の中、これだけ離婚だ不倫だ浮気だ再婚だとかって話が蔓延してくると、従来の価値観ではどうにもならなくなってるっていう感じは受けないこともない。そうしたところ、この作品の目の付け所は決して悪くはない。まあそれに、学歴コンプレックスのあるぼくは、ハーヴァード大学とイェール大学に現役合格し、ヘブライ大学院において中東問題の研究まで修めたっていうナタリー・ポートマンが「作りたい」とおもったものにまちがいはないんじゃないかっておもったりするものだから、始末が悪い。

 ま、設定としてはそれなりにおもしろい。

 ナタリー・ポートマン演じる主人公は、不倫相手と結婚して妊娠するものの、イザベルと名づけた娘をたった生後3日で失った。しかもその死については乳児突然死症候群によるものではなく、もしかしたら自分が圧死させてしまったかもしれないという、ちょっぴり複雑なものだ。だから、彼女の痛手は大きく、きわめて苦しい自己嫌悪にも苛まれている。けれど、略奪愛による結婚だからどうしても夫の連れ子には引け目があり、好い母親でいなければならないっていうストレスも相当にあったりする。で、その連れ子を自宅へ連れ帰る日が水曜日なもんだから、邦題がそうなってるってわけだ。

 それに、連れ子が、その母すなわち夫の元妻に対して、あれこれとなく耳打ちするのだろう。それによって、小姑ならぬ元妻が、めんどくさい夫や家庭の扱い方についてあれこれと口を挟んでくる。だから、なかなか、突然自分の家族になってしまった息子の面倒を見ようにもおもうがままにふるまえない。ほんとに、この連れ子は困ったもので、きわめて邪魔くさい。

「このままじゃあ、自分の望んでたような人生は送れないのではないか」

 という焦りが彼女に浮かんでくるのはごく当たり前な話だ。ところが、人間ていうのは慣れることができる動物なんだよね。自分の置かれている境遇にいつのまにか慣れちゃう。対人関係もそうで、そこには相互理解っていう人間にだけが備えている理性的な感情がある。

「僕はイサベルの生まれ変わりにいつか会うよ」

 と、連れ子がいうのは、つまり、ナタリー・ポートマンを母親として認め、兄弟姉妹ができることを期待しているという心情のあらわれだろう。ハリウッドは家族の再生をよく主題にするけど、この作品は家族の再編が主題なのかもしれないね。

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ラビット・ホール

2014年11月07日 12時22分49秒 | 洋画2010年

 ◇ラビット・ホール(2010年 アメリカ 92分)

 原題 Rabbit Hole

 staff 監督/ジョン・キャメロン・ミッチェル

     原作・脚本/デヴィッド・リンゼイ=アベアー

     製作/ニコール・キッドマン 、 レスリー・ウルダング 、

        ギギ・プリツカー 、 パー・サーリ 、 ディーン・ヴェネック

     撮影/フランク・デマルコ 音楽/アントン・サンコ

 cast ニコール・キッドマン アーロン・エッカート ダイアン・ウィースト サンドラ・オー

 

 ◇並行宇宙をつなぐもの

 もともとは舞台で、ピューリッツァー賞を獲った同名戯曲が原作らしい。

 たしかに舞台劇のような展開だな~って感じはあったけど、

 特に家庭劇の場合、舞台から映画にはしやすいのかもしれないね。

 たしかに、

 たった8歳の子供が交通事故に遭って他界でもしようものなら、

 その喪失感は埋めようがなく、夫婦の仲にも深い溝ができるだろう。

 なぜなら、子供の死によって家族という名の集合体はもう無くなっているからだ。

 とはいえ、

 ニコール・キッドマンがふと見かけた犯人の青年をつけ、

 図書館で青年の借りた『並行宇宙パラレルワールド』を自分も借りる気持ち、

 また、それがきっかけで会話を交わすようになるっていう展開は、

 たしかに微妙だ。

 けど、

 その本にに触発された青年が『ラビット・ホール』っていう、

 科学者の父親を亡くした少年が、

 パラレル・ワールドにいるであろうもうひとりの父親を探すために

「ウサギの穴」を通り抜けていくっていう漫画を描いていることで、

 おたがいとも、心の傷を癒そうとしていることを知るとともに、

 これまた微妙な、親子とも恋人とも親友ともつかぬ微妙な、

 まるで予想もしていなかった関係が生まれていくのは、好い展開だ。

 また一方で、

 アーロン・エッカートが、

 身近な者に先立たれた人達のグループセラピーに参加していたサンドラ・オーと、

 なんとなく好い仲に発展していっちゃうのも、これまた現実味のある話だ。

 夫婦なんてものはもろい。

 子はかすがいとはよくいったものだ。

 そういう人間の持ってる心の脆さを、丁寧に描いてる。

 ただ、ちょっとおもうのは、

 案外「ラビット・ホール」が生かされていないような気がするんだよね。

 パラレルワールドを考えたとき、自分もいれば夫もいるとかっておもうより前に、

 たぶん亡くした子供の存在をおもい、漫画の主人公のように、

 どこかにある「うさぎの穴」を探しもとめて彷徨するんじゃないだろうかと。

 そうした方が、

 均衡を失いつつある神経症のような女性の姿が見えてくるような、

 そんな気がするんだけど、まあこんなことをいっても仕方ないか。

 でも、さすがにこういう役は、キッドマンはほんとよく嵌まるね。

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Dearフランキー

2014年11月06日 00時30分14秒 | 洋画2004年

 ☆Dearフランキー(2004年 イギリス 102分)

 原題 Dear Frankie

 staff 監督/ショーナ・オーバック 脚本/アンドレア・ギブ

     撮影/ショーナ・オーバック 美術/ジェニファー・カーンキ

     衣装デザイン/キャロル・ケー・ミラー 音楽/アレックス・ヘッフェス

 cast ジェラルド・バトラー エミリー・モーティマー メアリー・リガンズ シャロン・スモール

 

 ☆スコットランド、グラスゴー

 ちょっと驚いたのは物語とはまるきり関係のないことで、

 ジェラルド・バトラーが舞台になってるグラスゴーの生まれだってことだ。

 でも、生後半年でカナダに移住したものの、

 両親が離婚したことで母親とスコットランドに戻り、ペイズリーで育ったらしい。

 ところが、グラスゴー大学を首席で卒業して弁護士になった。

 それも英王室の事務をとりあつかう弁護士で、エリート中のエリートだ。

 ただ、その間に父親を亡くしたらしく、自身もたいそう苦労して結局俳優になった。

 で、ここまで見てくると、なんとなく物語のフランキーに重なってくるものがある。

 フランキーは父親の暴力によって聴覚障害者になり、

 そのDVから逃れるために母親と居場所を転々とし、最後に祖母を頼ってきた。

 でも、母親は父親を悪くはいわず、船乗りだと偽り、偽の手紙のやりとりをしてる。

 ところがその船が実際にグラスゴーにやってくることで物語の本題になる。

 こうした物語の作り方は小さな話であるが故に丁寧で、

 偽の父親役を演じるジェラルド・バトラーの正体が最後までわからないんだけど、

 結局は、母親の相談していた親友の弟だってことがわかったときに、

 ああ、よかった、これでフランキーは偽だとわかってても幸せになれるんだ、

 てなことをおもわずおもっちゃうくらい、身を入れて観ちゃった。

 ジェラルド・バトラーがどういう気持ちで役に臨んだのかはわからないけど、

 でも、ちょっぴり自分の幼い頃の思い出がよぎったのかもしれないな、

 とかって想像したりしてる。

 ぼくはジェラルド・バトラーの映画はそんなに観てなくて、

『300スリーハンドレット』の印象はあんまりよくなくて、

 ようやく『エンド・オブ・ホワイトハウス』で、すげーとおもったくらいだから、

 こういう家族の小さな幸せを願った小品とはどうも結びつかなった。

 ところが、好いんだよね、意外に。

 赤の他人がいきなり偽の父親役をやらせられ、

 それで、その子のことがいとおしくなるだけじゃなく、

 さらに、その子の母親のことも気になったりしてくるところが、

 たしかに予定調和な展開ではあるんだけど、妙にはらはらしつつも幸せな気分になれる。

 いや~、ぼく、この映画、好きだわ。

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母なる証明

2014年11月04日 00時28分23秒 | 洋画2009年

 ◇母なる証明(2009年 韓国 129分)

 英題 Mother

 staff 監督・原案/ポン・ジュノ 脚本/パク・ウンギョ、ポン・ジュノ

     撮影/ホン・クンピョ 美術/リュ・ソンヒ

     衣装/チェ・ソヨン 音楽/イ・ビョンウ

 cast キム・ヘジャ ウォンビン チン・グ ユン・ジェムン チョン・ミソン イ・ヨンソク

 

 ◇これ、現代の韓国?

 物事には、善悪がある。

 裏と表があって、犯罪者と被害者があって、

 健常者と障害者があって、富める者と貧しき者があって、

 差別する者と差別される者とがある。

 この映画はそういうものをすべて並べて、

 それをみんなぶち壊すような勢いで利己主義の権化になっていく恐ろしさを描いた映画だ。

 5歳のときにトラウマを持ってしまった知的障害者の息子は、バカといわれるとキレる。

 そんな息子が女子高生を殺した容疑で投獄された。

 息子を溺愛する母親は息子の容疑を晴らすためにそれはもうありとあらゆることをする。

 犯人を捜そうとするだけじゃなく、証拠の捏造、冤罪者の追い込み、証人の殺害などだ。

 それはもはや狂気でしかないんだけど、

 被害者となった女子高生は売春をすることで米や餅を手に入れ、家族を生かしている。

 殺される証人は屑広いの老い先みじかい爺さんだ。

 ほんとは息子が女子高生をコンクリートで叩き殺したにも拘わらず、

 息子に代わって犯人に祀り上げられるのはダウン症のせいで満足に説明できない少年だ。

 伏線というか要になっているのは、母親が鍼灸をしていることだ。

 嫌なことを忘れてしまうことのできるツボは、内腿にあるらしい。

 爺さんを叩き殺して火をつけて証拠を隠滅したはずなのに、

 知恵遅れの息子が火事の現場から母親の鍼を見つけてしまい、母親に渡してやるところなんざ、

 こいつほんとに知恵遅れなのかとおもわれ、観る者に鳥肌を立たせる。

 だけど、この監督はこういうんだろね。

「それぞれの人生や境遇についていろんなことはあって、

 不幸な人間も、犠牲になった人間も、加害者も被害者も、

 そんなことはどうでもよいし、所詮は赤の他人でしかない。

 この母親は息子を守ることができればそれでよく、

 あとはただ踊るだけだという突き放すだけだ」

 でも、どうにも、相容れないものを感じるのは、

 滑稽な場面を見せられたときだ。

 これって笑いをとるような映画なんだろか?と。

 どうにも、感覚的に入り込めないわ。

 とにかく、恐ろしい映画だったわ~。

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俺たちに明日はない

2014年11月03日 11時37分15秒 | 洋画1961~1970年

 ◎俺たちに明日はない(1967年 アメリカ 112分)

 原題 Bonnie and Clyde

 staff 監督/アーサー・ペン 製作/ウォーレン・ビューティ

     脚本/デヴィッド・ニューマン、ロバート・ベントン

     撮影/バーネット・ガフィ 音楽/チャールズ・ストラウス

 cast ウォーレン・ビューティ フェイ・ダナウェイ ジーン・ハックマン ジーン・ワイルダー

 

 ◎1930年代、テキサス

 クライド・バロウとボニー・パーカーの実話。

 その頃、4月になるとまもなく、早稲田松竹ではかならずこの作品が上映された。

 ここでいう「その頃」っていうのは、ぼくが大学に入った頃という意味だ。

 当時の大学生は、70年安保の時代よりもひと世代下で、

 学生運動なんてとうの昔に下火に入ってて、みんながみんな、しらけてた。

 けど、なんとなく心のどこにまだ滾るものがあったみたいで、

 貧乏で惨めな学生と、そろそろ贅沢を知り始めておしゃれに遊ぼうっていう学生と、

 ほぼ二極化し始めた頃なんじゃないかっておもえる。

 ぼくは、もちろん、前者だ。

 いまだに贅沢もおしゃれも知らない。

 ま、それはいいとして、この作品はたぶん前者の連中が、

 とぼとぼと名画座に通い、膝を抱えるようにして観たものだとおもうんだよね。

 だって、ぼくがそうだったから。

 で、内容についていまさら書いたところで仕方ないから書かないけど、

 当時も今も、鑑賞後には決まってこんなふうにおもう。

 アメリカのニューシネマってやつはこういう映画なのか~と。

 それにくわえて、

 なんでこれだけ凄まじい銃撃戦をしてても品が無くならないんだろうと小首をかしげる。

 当時の映画はいまの映画よりも常に引き気味でキャメラを回し、

 リアルさを優先して、どことなくドキュメンタリータッチを匂わせる。

 この作品も例外じゃないけど、

 なんといってもフェイ・ダナウェイの女優根性にぼくはしびれる。

 ラストカット、彼女はギアに足首を固定して、

 87発という凄まじい乱射を浴びて、

 座席からなかば転げ落ちかけたまま死ぬ。

 それまでのインポテンツのビューティとの濡れ場もさることながら、

 さすがに胆が据わってる。

 こういう場面の積み重ねが、当時の学生連中を刺激したんだろね。

 もしかしたら、今も。

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真夏の方程式

2014年11月02日 00時39分23秒 | 邦画2013年

 ◎真夏の方程式(2013年 日本 129分)

 staff 原作/東野圭吾『真夏の方程式』

     監督/西谷弘 脚本/福田靖 撮影/柳島克己

     美術/清水剛 装飾/田口貴久 音楽/菅野祐悟、福山雅治

 cast 福山雅治 吉高由里子 北村一輝 杏 山光 塩見三省 白竜 風吹ジュン 前田吟

 

 ◎夏と海と少年

 よく、海と山のどちらが旅行に出た気分になりますかっていう質問を耳にする。

 そうしたとき、夏の海はおそらく一番人気かもしれない。

 なんたって開放的だし、きらきらした思い出ができそうなイメージだもんね。

 でも、ぼくはそうじゃない。

 だって、ぼくは3方を海に囲まれた半島に生まれ育ったものだから、

 海は山よりもふるさとに直結しちゃってる。

 だから、海っていうと、旅に出ているっていう気分にはあんまりならない。

 ま、それはそれとして、

 玻璃ヶ浦っていう海がどこにあるのかは知らないんだけど、

 東京からはそんなに遠くない距離のところにあるような設定におもえた。

 ま、そんなことはさておき、

 さすがに16年前の事件を絡ませ、

 また少年をとりまく人々の生活と感情を絡ませるあたり、

 ほんとに上手な作り方だなとおもわざるをえない。

 どの事件も大上段にふりかぶっているわけではないし、

 トリックそのものもやはり大掛かりなものではないけれども、

 抒情的な面に大きく傾斜させてるという点では、

 子供の苦手な湯川が、みずからすすんで子供と接していくという分、

 これまでの設定はちょっと忘れてもって感じかもしれないけど、

 そんなことは物語を進めていく上ではたいしたことじゃない。

 というより、苦手な対象となる子供は、

 小うるさいがきんちょなんだから、この少年はその範疇に入らない。

 また、

 ペットボトルのロケットを発射する実験もまた抒情性が高く、いいんじゃないかと。

 親子、家族、自然、そういうものを見つめ直そうってのが主題なんだろか?

 それとも、なにか別にあるのかしら?

 なんにせよ、

 夏の海と少年と家族愛ってのは、いいもんだよね。

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ブリジット

2014年11月01日 00時02分54秒 | 洋画2002年

 ◇ブリジット(2002年 フランス、日本 90分)

 原題 Bridget

 staff 監督・脚本/アモス・コレック 製作/フレデリック・ロブ

     プロデューサー/エイヴラム・ルドウィグ、山岸留奈、沖田敦、堀越謙三

     撮影/エド・タラヴェラ 音楽/ジョー・デリア

 cast アンナ・トムソン デヴィッド・ウィック ジュリー・ハガティ アーサー・ストーチ

 

 ◇ジェットコースターのような

 あまりにもめまぐるしい展開で、なかなかペースに乗りにくい。

 ともかく、夫婦して銀行強盗までしてのけたのに、

 赤ん坊を抱えて警察に通報しようとしてたら交通事故でふいになり、

 親権も取られて、子供をとりかえすためには50万ドル要る。

 で、その50万ドルをもとめて、

 スーパーのレジ打ち、ポルノショップのストリッパー、コカインの買付人まで、

 ありとあらゆる仕事をして世界を回り、

 やがて、獣の仮面をかぶって自分を素っ裸にして辱めた爺に復讐してのけるという、

 なんともめまぐるしすぎる破天荒な物語なんだけど、

 妙に説得力があるのは、やはり、冷めて突っ放した感じの演出にあるのかもしれない。

 それと、ふしぎなくらい共感できそうな独白も用意されてる。

「私の人生は波乱万丈、頂上からどん底までたった3分でおちた」

「テキーラは今の私の燃料、落ち込んでなんていられない」

「人生は何もかも失うとツイてくるけど、何もかも手に入れると失う痛みが始まる。

 それが人生、みじめなものよ」

 いやまったく、そのとおりだ。

 主演のアンナ・トムソンがなんとも中東的な顔立ちなのは、

 監督のアモス・コレックがエルサレムの出身ってこともあるんだろか?

 まあ、なんとも得体の知れないながらもタフな面構えな感じは悪くない。

 ただ、これだけ感情が多いのか少ないのかわからない47歳の女性が、

 なんの取り柄もないにもかかわらず、

 ただひたすら子供と一緒に暮らしたいという一心だけで、

 つぎつぎに男運が好いのか悪いのかぎりぎりの線で潜り抜けて、

 しかもちょっぷり知恵遅れではあるけど、

 超金持ちの息子から「世界一綺麗な青い瞳だ」とかって、

 ひと目惚れされちゃうっていうのも、

 あんまり見たことのない展開ではあったけどね。

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