何処まで行く?

JR西日本の脱線大惨事はメディアで連日報道されている。あれだけ大きな犠牲を払ったのに、少しもつっこんだ原因の究明がない。昨日、外国の専門家が唯一国の責任に言及していた。日本は政治家も学者も市民も誰もそこまで目がいかない。民間といえども担当の監督官庁があるのに。あの無責任体制やあの過密ダイヤ。仕事への哲学の無さなど、同様のことは広く一般的なことはみんな承知しているだろう。(勿論監督官庁やメディアも)またしても、例によって、「喉元過ぎれば」「人の噂も75日」の民族性?として片付けられるのだろうか。
これが日本という国としてみたらどうだろう。この程度のリスクは問題外のようだ。
しかし個人であろうと国であろうと,行け行けどんどんと果てしなく進むものではない.どこかかでブレーキををかけ、どこかで方向転換しなければもたない。歴史を見ると日本は特に不器用で一本調子が多く状況判断が悪い。先の戦争も、とことんやって、原爆投下によって方向変換した。国の主体的判断と言うより外国の力によって,余儀なくされた感じだが建前だけでも変えざるを得なかった。
教育で考えてみたい。皮肉な表現だが、もし私が文部科学省の大臣で、総理大臣から教育と子どもを壊してほしいと要請されたら、わたしは今やっている文部行政を今のまま実施するだろう。なぜなら、特に、ここ2~30年で悪くなっていることは、実証済みで結果は、はっきりと検証されてるのだから。とにかく現場の子ども達の実際を見ず机上の対策ばかりだ。作文だから、一見よく見える。しかし教育は現実であり結果を見れば解る。今「健康で文化的=幸福」というもの差しで子ども達を見たらどんなプラスのの統計的な指標が出てくるだろうか。私はほとんど思いつかない。敗戦後育った私達はめちゃくちゃ貧しかったけれど、明るい未来はあったし、自分たちの世界があった。今、国では、学力がどうの言ってるが、実際は、子どもの運動能力の低下、不健康、情緒的な障害児や不登校、犯罪などかつてないスピードで増加している。教育そのものから除外される子供が増え続けている。その様な子どもが『どこでも・誰にでも起こりうる」と公的機関も認め警告しているのにだ。ヒヤリ・ハットはやまほどある。勿論、教育の転換は再度武力の戦争のリスクを払ってとは簡単にはいかないだろう。
60年前とは国の内外の状況は変わっている。おそらく、経済戦争?のどうしょうもないリスクを目の前にし行き詰まりにっちもさっちも行かなくなったとたときはじめて、本気で考えるに違いない。その時もやっぱり、地球環境か、外国から余儀なくさせられてのことだろう。出来れば出来るだけ早く、大事な指標を見て我々の自己決定で方向変換できるといい。それも教育に待たなければならないのだろうが…しばらく時間がかかりそうだ。今は大人が事実と知っていても耐えられないからか、目をそらしている。 今度の事故で明らかにしなくてはならない1つは、上命下達  命令ー服従 指示ー指示待ち の関係そのものです。形式と実際の乖離。主体性や責任感はどうなるか、検討してほしい。学校教育では命令や指示型の指導は、それ以外はやらない子どもを生み出し、それが度を超すと指示にも従わなくなり、さらに進むと従えなくなる。これは法則的でした。あの若い運転手さんや、会社のの人たちの様子を伺うと、かなり弊害が出るほど上命下達が進んでいたのだろうと想像されます。教訓は多いのではないでしょうか。
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