世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
安全と競争
人間は自ら築いたた社会を競争社会と言い、経済の国際競争から教育の受験勉強まで比較・競争が社会の当たり前の原理でもあるかのように営まれている。
競争は争いや戦いにもなり安全を損ない危険を伴うことが多く、競争と安全性の間には相関関係がありそうだ。
競争と安全はあたかも反比例しているかのようだ。
競争を一切否定するものではないが、(過ぎたるは、及ばざるが如し)ではないが、今回の原発事故は経済競争が、先の秋葉原事件は受験競争と大いに関係していなかったか?
その辺から解きほぐしてみる必要はないか?
かねのもうじゃと2013年
あくまでも自分勝手な仮説ではあるが…
のど元過ぎぬうちにカネのもうじゃが頭をもたげてきたようだが、一方、2013年ごろに向かって日本の国債は国民の預貯金では賄えず利率の高騰で国債と同時に経済が破綻し大規模なインフレへの道を突き進んでいるようにも見える。、それはリーマンショックや今回の原発事故どころでない世界経済を揺るがすような衝撃を当てえるだろうと予測している。(すでに欧米はそのことを心配しているようだ)
経済は稼ぎ方であり、出口は産業構造の転換にしかないと考えている。
時々【産業構造の転換】は耳にするようになってはきたが、ほとんどカネの亡者的な発想でしか用いられていない。
(安全で持続可能な産業構造)の観点から、国の内外・各界・各分野・各層で模索し、社会的に影響力を持った人の声を早く聞きたいと願っている。
カネのもうじゃであろうとなかろうと、こどもたちに地球と経済を壊して引き渡そうとする人がいるとは思えないからだ。
(政党の大連合の話があるようだが、双方求められる理念を持たず大連合しても、もうじゃの勢いを増すだけなのに、日本の政治はその辺をさまよっている。 まずは、全ての政党、政派や全ての人が理念を模索し、グランドデザインの礎(もとい)を早急に考える時ではないだろうか。 )
カネのもうじゃ
昔から(金のもうじゃ)と言う言葉がある。
お金に価値観を置きすぎるために普通に見えるものが見えず、普通に感じるものが感じなくなった人間ことだが、現代社会がそれを促すような仕組みになってはいないか?
普通の庶民は、お金が有り余ってもしょうがないが、お金がなくては生きてはいけないし子供は育てられない。
最低限の生活の糧を得るためには、少々どころか多くの犠牲を余儀なくさせられる。
社会が自由の名で権力や仕組みをもって金儲けに走ったら、それを拒否しては生きていけず従はざるを得ない。
金儲けに積極的であろうとなかろうと、一緒に走ることになるから程度の差こそあれもうじゃになるのは止むを得ない。
それにしても、それにしてもだが (安全よりお金)(自然と人間の逆転した発想)は何とかならないものだろうか。
これまでも、のど元過ぎぬのに…と書いてきたが、昨日のニュースでは管首相は災害復興の中心に防衛大学の学長を据えると言う。
もちろん肩書きでどうこう言えないが、社会的政治的常識として疑問はないか。
原発事故は勿論、災害の復旧であってはならい。国の安全を見直し、まずは、新しい国作りのグランドデザインを描かなければならない。
それは単に管氏の言うような都市計画的なものであってはならない。根っこは経済の意味の再確認と安全あっての経済活動へとシフトを変える物でなければならない。個人的にはよくわからないが、防衛大学の役割の延長にそれがあるとは考えにくい。
むしろ災害復報道の中で違和感すら感じたメディア報道と軌を一にしていないか。
はみ出すことができないほどの大きな仕組みの中で、メディアの一人一人も首相も、生真面目で一生懸命にやっていることだとは思うが、結果として 転んでもただ起きぬ(カネのもうじゃ)とダブって見えて仕方ない。