世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
この身にも見られる取り違い
意味の取り違いや価値の転倒は至る所に見られる。
「腹が減っては戦は出来ぬ。」は古来からの人智だが 世界のリーダーからは「経済より国防」の声が聞こえて来るようだ。
取り違えたようなリーダーの声が 世界経済を危ぶめ 斬首や難民を生み出しているようにすら見える。
取り違いは 至る所に見られる 勿論 この身にも多く見られる。
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市民が生み出す新たな情報
情報を鵜呑みにせず 市井の民同士が前後や因果を語り 公やマスコミより新らしい情報を生み出し 共有することではないだろうか。
いつのまにか そんな時代になっていた。
「民主主義」の時代に 情報は 結局 カショギ氏の死より金儲けのセールスを優先させている。
人の命よりお金の 「金主主義」の情報よりましな新たな情報を生み出すのは 難しくない。
一人一人にとって 唯一無二の現実は目の前にある。繋ぐだけ。
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干上がるバッテリー
コマーシャルの合間にニュースを流す、 と言ったら言い過ぎだろうか。
暗殺も 難民も KYBのデーター改ざんも コマーシャルの間を繋ぐ。
ニュースを蒸発させながら 社会は動いている。 ニュースを欠いては バッテリーは 干上がる。
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事実が物語る
子供の頃 一年で一番楽しみにしていたのは お祭りだった。
今は 殆ど祭りにも出かけない。
意味は分からなかったけれど 採れた穀物や野菜をお供えし 五穀豊穣を祝った祭りに ウキウキしていた。
食べ物への感謝や祭は 世界中どこも同じだだろう。
今は 野菜や穀物より 車や電気製品が 重宝されるのは 換金の値打ちが違うからだろう。
そのせいか お祭りは下火になった。
換金術に血眼になっているリーダーたちが 日本の伝統や文化を声高に主張しても 祭りや祀りが廃れて行くのは仕方ない。
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作者不明
朝ごはん かぶってる帽子 車 おうち お金 テレビ 草木や人 空気や水 教科書に音楽
出身は 皆大地
大もとを作ったのは 誰だろう 作者不明
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草木が枯れたら
科学も芸術も金次第
戦争も平和も金次第
仕方がないよ 地獄の沙汰も金次第
あの世へも お金を持って行けるなら 持って行きたい
この世の草木が枯れたら お金はいらぬ
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個人の意思疎通
今ある出来事の見え方や意味は100人が100人同じではない。
しかし、意思の疎通によって共通点や違いが明らかになる。
派手なフェイクニュースの時代にあっては 事実や実情を探るには 個人間の意思の疎通が一番ではないかと考えている。
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確かなこと
(大袈裟なことは百も承知で )
人類は戦争であれ何であれ手段を選ばず 自然である地球や人を壊しているような気がする。
全体は 何時までも続けられるはずもなく 出口に向かっていることは確かだ。
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渦中の人
自然無しに社会は成り立たず、
個人もまた 自然の本能なしには生きられない。
人は人材として社会に用いられ社会生活を営む。
仮に社会が自然を犠牲に成り立っているとしたら 個人もまた 生命を犠牲にせざるを得ない。
今は どうなっているだろう?
人に本能に反した度を越した行動を求めると 個人は生命力を落とし生命的な危機感を覚えるだろう。
生き抜くため社会や他からの求めを拒否しもがき探索する。
世界には どれだけの人が この渦中にいるだろう?
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想像に壁は無い
想像に壁は無い。
本能的な統合感覚からすると 戦争も平和も生きるための経済活動の形であって 次元を異にするものではない。
人類の経済活動としてとして 戦争や平和をひっくるめて地続きの絵として想像した方が見易く 意味も分かり易い。
平和や戦争の異なった極から軍需産業や戦争を捕らえていては 生き方としての経済活動を論じたことにならない。
その意味では戦争や平和 生き方としての経済は 政策もなく論じられてもいないのではないだろうか。
人々は 自らの想像に壁を作ってはいないだろうか?
壁を越えて世界を広げることが 生きてる意味ではないだろうか。
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