札幌、というより日本を代表するジャズ喫茶の老舗「JAMAICA」のマスター、樋口重光さんが5月12日に亡くなられた。札幌のジャズの親父であり師匠でもあった人で、多くの方がこの店に通いハードバップの洗礼を受けている。高校や大学の授業をサボって、JBLパラゴンから流れるファンキーな音に酔いしれ、かかったレコードをノートに書きとめ、マスターから人生を学んだ方もおられるだろう。
開店は1961年なので今年は55年目にあたる。ジャズ喫茶がピークだった70年前後は、ここ札幌にも「Act」をはじめ「Ayler」、「B♭」、「ニカ」等々、多くの店があったが今でも現役なのは奥様と娘さんが店を守っている「JAMAICA」と「BOSSA」くらいなものだろうか。レコードからCDに変わり、ジャズを聴く若者が減り、ジャズ喫茶文化が衰退した今でも頑固なまでにジャズの扉を開けているのは頼もしい。樋口さんはジャズの生き字引で、聴いたレコードの量は勿論のこと、多くのジャズメンを見ており親交も深い。1966年のコルトレーン来日公演も聴いている。
店に行った方ならアート・ブレイキーのサインが入った「A Jazz Message」が飾られているのをご存知だろう。JMとブルーノートのイメージが強いブレイキーだが、こちらはインパルス盤でソニー・スティット、マッコイ・タイナー、アート・デイヴィスと組んだワンホーン・セッションだ。組み合わせの妙はボブ・シールの得意とするところで、普段顔合わせがないミュージシャンだけにJMとは異質な緊張感が生まれる。名プロデューサーの狙いは当たった。余談ながらブレイキーのドラムは一聴でそれと分かるので、ブラインド・クイズによく出される。JMのイメージで聴くからなかなか当てられない仕掛けだ。
ブルーのジャケットの余白には友愛の意味を込めて「FORGET ME NOT」と力強く書かれている。マスターがブレイキーと酒を酌み交わしたときにサインをいただいたという。半世紀以上に亘り「JAMAICA」から発せられたジャズ・メッセージは扉を開けた一人一人に伝わり、ジャズをこよなく愛した札幌のジャズ・マスターを忘れることはないだろう。享年78歳。合掌。
開店は1961年なので今年は55年目にあたる。ジャズ喫茶がピークだった70年前後は、ここ札幌にも「Act」をはじめ「Ayler」、「B♭」、「ニカ」等々、多くの店があったが今でも現役なのは奥様と娘さんが店を守っている「JAMAICA」と「BOSSA」くらいなものだろうか。レコードからCDに変わり、ジャズを聴く若者が減り、ジャズ喫茶文化が衰退した今でも頑固なまでにジャズの扉を開けているのは頼もしい。樋口さんはジャズの生き字引で、聴いたレコードの量は勿論のこと、多くのジャズメンを見ており親交も深い。1966年のコルトレーン来日公演も聴いている。
店に行った方ならアート・ブレイキーのサインが入った「A Jazz Message」が飾られているのをご存知だろう。JMとブルーノートのイメージが強いブレイキーだが、こちらはインパルス盤でソニー・スティット、マッコイ・タイナー、アート・デイヴィスと組んだワンホーン・セッションだ。組み合わせの妙はボブ・シールの得意とするところで、普段顔合わせがないミュージシャンだけにJMとは異質な緊張感が生まれる。名プロデューサーの狙いは当たった。余談ながらブレイキーのドラムは一聴でそれと分かるので、ブラインド・クイズによく出される。JMのイメージで聴くからなかなか当てられない仕掛けだ。
ブルーのジャケットの余白には友愛の意味を込めて「FORGET ME NOT」と力強く書かれている。マスターがブレイキーと酒を酌み交わしたときにサインをいただいたという。半世紀以上に亘り「JAMAICA」から発せられたジャズ・メッセージは扉を開けた一人一人に伝わり、ジャズをこよなく愛した札幌のジャズ・マスターを忘れることはないだろう。享年78歳。合掌。
訃報が続いて残念です。JAMAICAは基本、12時から24時までの営業ですが、ashita45th さんが行かれたときは何かの都合で開店が遅れたものと思われます。スローボートも福居さんの意を継いで営業しておりますので、機会があればいらしてください。サッポロ・シティ・ジャズは偽物ですが、ジャズ喫茶とジャズ・クラブは本物のジャズが聴けます。
今日は朝から日ハムが新球場を建設し、札幌ドームから本拠地を移す構想が報道され大騒ぎでした。JAMAICAも今の場所に移転しておりますが、引っ越しは大変だったでしょう。
大量のレコードと大音量のパラゴン、それだけでスノビッシュな空間です。この場所でジャズ体験をしたなら必ずやジャズの虜になるはず。昨今、若者はジャズを聴かないと言われているだけに文化としてのジャズ喫茶は残したものです。JAMAICAの看板はこれからも娘さんが守ってくれることでしょう。
また来札の折は是非お寄りください。
3月15日の福居良さんに続いての訃報、残念です。
数年前、岩見沢で仕事をし、翌日の夕方の東京行きの飛行機を押さえ、
翌朝札幌に出て、午後まで待ってJAMAICAに行ったことがありましたが、
その時はまだ営業しておらず、「また来ます」とドアに紙を挟んでやむなく帰って来ました。
マスターが逝去されたのは残念ですが、いつか一度は行ってみたいお店です。
マスターのご冥福をお祈りいたします。
僕は、14~15年前に初めてJAMAICAに寄りましたが、それ以来年に1~2回、札幌を訪れる際には必ず寄っています。
黒い扉を開けた途端飛び込んでくるジャズの音とパラゴンの雄姿、そしてレコード棚はじめ店内の雰囲気がなんともいえず「ジャズ喫茶」を主張しています。
昔の記録を読むと、僕が訪れた時には、コルトレーンの「ヴィレッジヴァンガード・アゲイン」やベニー・ゴルソンの「ニューヨーク・シーン」がかかっていたなどとあります。
最近は、娘さんでしょうか、女性の方がお店に出ていました。三松ビルでの営業は、たいへんかもしれませんが、ボッサとともに是非営業を続けていただけたらありがたいです。札幌へ行く大きな楽しみの一つです。
今はなき東映劇場ですね。若かりし頃、「JAMAICA」に足を踏み入れた途端、視線が集まったのを思いだされたでしょう。私は学生のとき東京のジャズ喫茶でサラ回しをしておりましたが、一人で入ってくる女性は少なかったですね。当時のジャズ喫茶は照明を落としていましたので、皆さん、綺麗に見えました。
たまにジャズ喫茶に出かけましょう。ジャズは大音量に限ります。
やはり若いころ通われていたようですね。「JAMAICA」で聴いて、それを参考にして買ったレコードの数々、一枚一枚が思い出でしょう。「JAMAICA」に行かなければ一生巡り合わなかったアルバムもあるかもしれません。ジャズ学校としての大きな役割を果たしていたわけです。
開店当初は東映の地下でしたので、女性は入りづらかったようです。それでも勇気を奮って来店した女性が帰るときは、ポルノ映画ではなくジャズ喫茶から出てきたことを証明するためレコードを持たしたとか。心憎い配慮です。
札幌のジャズの景色が寂しくなりました。
東映劇場だったかしらん?
あの近辺でよくウェートレスのバイトしてました。
狸小路に移ってからは何回かお店にはおじゃまを。
歌レッスン場があのビルの地下でしたから。
メル・トーメの曲をリクエストして
かけてもらった記憶があります。
懐かしい!
足、遠のきましたね、ジャズ喫茶。
こんど、行ってみます、
あの、圧巻のスピーカーに逢いに。(^^)
何とも哀しいお知らせです。「JAMAICA」はオヤジの青春そのものでも有ります。たぶん若い時の札幌在住時(15年)でのべ100回程度は通っているはず!
昨年、札幌に行った折立ち寄った際、その時マスターがカウンターに立って居られ、《何かお聴きになりたい盤がありましたら?》と声を掛けられ、V・デッケンソン盤をお願いしたのが鮮明に思い浮かべられます。
ジャマイカへの出入りは開店から5年目辺りでしょうか?
1965年辺りからの当時紅顔の美青年(今や単なるオッサン!)のジャズ学校でもありました。
SJ誌とレコード屋さん(当時、札幌の最大レコード店は玉光堂)とジャマイカで聴いたアルバムを参考に買いたいレコードの参考にしたものです。
当時のジャマイカはポルノ映画館(東宝公楽?)の地下にあり。装置はLE-8Tそしてランサー101の時代です。憧れの装置でした!今でもそのキラキラしたピアノ音、太いサックスのJBLサウンドが耳に残ってます。
誘った彼女が何故かお姉さんも連れ来て3人で入ったジャマイカも良き想い出です。 ジャマイカで聴いたコルトレーンの(The Night Has A Thousand Eyes) に感動したのを覚えております(今や正座して聴く雰囲気でチョイ苦手に!)
過ぎ去って久しいあのキラキラした青春の時が又遠くなりました・・・さびしい!
申し訳ございません・・・オヤジの昔昔の話を長々と書きました。
札幌のジャズの歴史を築いたジャズ人の訃報は残念です。今週はジャズ喫茶「JAMAICA」、またマスターの思い出をお寄せいただければ幸いです。いつもの何でもベスト3はお休みです。