「オーケストラ!」のような一家団欒にこの一本という感動作もあれば、一家団欒で絶対に観べきではない「エンター・ザ・ボイド」という問題作もあるのが、フランス映画界のわけわからないところ。前作「アレックス」がカンヌ映画祭で上映された際には、「イタリアの宝石」モ二カ・ベルッチが延々26分にわたり陵辱暴行される凄まじいレイプシーンに1500人の観客のうち、200人が途中退場したといわれる、あのギャスパー・ノエ監督の新作です。
観客の不快と嫌悪を味あわせ、青少年のトラウマとなる映画をつくる監督としては、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー、「ファニーゲーム」のミヒャエル・ハネケ、「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキーと並ぶのが、このギャスパー・ノエ。しかし、新作、『エンター・ザ・ボイド』(Enter the Void)では、凄惨な暴力は影を潜めています。
舞台は、ネオンとセックスとドラッグの東京。ただし、欧米のSF小説に書かれたアキバとオタクのキッチュでバーチャルなTOKYOではなく、上海やソウルでもかまわない、どこともつかない国籍不明のアジアの都市空間に思えます。タイトルクレジットには、多数の日本人俳優の名が連なりますが、顔のアップは皆無。誰がだれだかわかりません。
主な登場人物は、ドラッグのディーラーやジャンキーやストリッパーなどの不良外人。日本人もアジア人だという区別がかろうじてつくくらいですが、外人も俳優らしい俳優はほとんど登場しません。男女がぼそぼそ喋りうろうろするだけ。新宿歌舞伎町や池袋西口の若者たちを流したTVドキュメンタリのように、安手の映像です。
ただし、しかし、その映像が途中から変わります。視点が、視線が、カメラアイが宙に浮いて移動するのです。オスカーというドラッグのディーラー兼ジャンキーの一人称で映画は始まります。TVの街頭インタビューでは、マイクを向けられた人は映されるが、マイクを持ったインタビュアーは声のみで姿は表さない。同様に、洗面所でオスカーが顔を洗うときに、はじめて鏡に映ったオスカーの顔形が観客にわかります。
そして、カメラは浮く。室内の天井に、屋根に、ビル群の上に。ほとんどが真上からの俯瞰撮影です。したがって、人間の頭頂しか映されない。室内を隔てた薄い壁を越え、外壁から狭い道路をまたぎ、また違うビルの外壁を越えて室内へ、カメラは密集した盛り場の空間を隙間を自在に移動していきます。この映画の重要な脇役は、ネオンと蛍光灯といえます。全編、大半が盛り場の夜のシーン。月明かりもかすむ、人工照明の点滅が見せつけられます。
ここから先はネタばらしになるけど、たぶん、たいていの人はこの映画を観ないだろうから、かまわないでしょう。いかがわしいボイド(Void)というクラブの汚い和式便所で死んだオスカーの幽体離脱した視線=カメラなのです。死ぬと魂が身体を離れて、上から死んでいる自分を見下ろすというやつ。したがって、生きている人々の頭頂しか、私たち観客にも見えなくなる。全身や四肢が映るのは横になってするセックスの場面くらいです。
離脱したオスカー視線は、水槽に土を入れてつくった蟻の巣の断面を見るように、狭い空間を人が移動し、話し、集まり、性交するのを見ていきます。この映画の主役は、視線そのものかもしれません。観客は、傍観者として、ただ見ていくしかありません。営みというにはあまりに矮小な人々の頭部の動きと声を。観客にとっては、上から下を見下ろす視角に固定されたロードムービーのようなものになります。
ポールダンスのストリッパーをしている妹のリンダ、その愛人のマリオ、ドラッグ友だちのアレックスやビクターの間を行き来して、安アパートや風俗ビルやいかがわしいクラブを彷徨うだけだったオスカー視線は、やがて眼前で両親が交通事故で死んだ遠い過去から、ビクターの母親とセックスした近い過去、やがて輪廻転生を思わせる未来まで時間を往還していきます。
孤児となって別れ別れになったオスカーとリンダが再会するまでが明らかにされますが、空間移動から時間移動するなかで、媒介となるのは、この妹リンダです。風俗クラブを経営するヤクザらしいマリオとのセックス場面は、私たちがよく観てきた欧米の映画の男女セックスシーンとは、ずいぶん違います。愛の交歓といえるような美しい絡み合いではなく、女は快感に呆けたように、男はまるで自慰しているように、孤独な肉体を交換するだけです。
風俗クラブの狭くて乱雑な控え室や安っぽいラブホテルで交わるリンダ。このあたり、日本のアダルトビデオの影響がうかがわれますが、少しも男性観客の「劣情」は刺激されないでしょう。リンダに淫猥さは漂うのですが、同時に生殖行為の生々しさにそれはつながっているように思えます。リンダは愛や恋のためではなく、売春というのでもなく、
生きるために、暮らしのなかでマリオや他の男とセックスします。
欧米の映画で、こんな風に生々しいセックスシーンを見た覚えがありません。マリオが乳首にしゃぶりつくと、母親の授乳に場面が転じ、膣に出入りする亀頭を子宮側からとらえたり、堕胎手術の様子をはさんで、卵子に着床する精子の顕微鏡撮影を挿入したり、尻取りのようなつながりと双六の上がりのような輪廻転生イメージのベタさには、いささかうんざりさせられます。
このクソリアリズムとあったまのわるい展開は、どこかあの若松考二監督作品を思わせます。この場合、「あったまのわるい」は褒め言葉です。知性と教養に邪魔されず、「あったまのわるい」主張をくどく繰り返すメッセージ性のことにほかなりません。幽体離脱した視線や輪廻転生のイメージは、観れば誰でもわかることですが、ギャスパー・ノエのテーマも最後までつきあえば、誰でも理解できることでしょう。一言でいえば、無残なる生、ということになる。私たちは、無残なる生、を生きている。ギャスパー・ノエはただそれだけを映したいのです。
その無残さを、一人リンダがその生々しい女体によって救っている。リンダには母と輪廻転生が重なる。と、やっぱり、「あったまのわるい」構図が描けるわけですが、やはり、リンダがこの映画の見どころかもしれません。ほかに見るべきものは少ないし。正直にいうと、半分、早回し1で観ました。浅草あたりで800円で売っている万華鏡を覗いたような、ちゃちなドラッグ幻想シーンや人魂くらいの速度でゆっくり横移動するカメラが、実に退屈だったからです。
なんだかわからない芸術映画ではありません。なんだかわかりすぎるくらいなのに、なんだか考えさせるのです。ギャスパー・ノエの「2001年宇宙の旅」かなとも思えます。「2001年宇宙の旅」も、単純な時系列で構成し直すと、『エンター・ザ・ボイド』(Enter the Void)とよく似た映画になりそうです。ちなみに、Void(ボイド)は無という意味だそうです。やっぱり、「あったまのわるい」人にお勧めです。
(敬称略)