原作に忠実に、よくまとまっている。原作を読んだときには気づかなかったが、映画を観ていて気づいたことがある。「命の重さ」がテーマだということだ。
「命は重い派」は、森口悠子先生、寺田良輝先生、桜宮正義先生、「命は軽い派」は、渡辺修哉生徒、下村直樹生徒、北原美月生徒に分けて異論はないだろう。あるいは、「殺してはいけない派」と「殺してもかまわない派」と言い換えることもできるだろう。
この命とは、いったい誰の命を指しているのかと考えてみると、つまり、他人(ひと)の命のことのようだ。秋葉原無差別殺傷事件をはじめとする、とりたてて理由もなく人々を殺してまわった、若者を犯人とする一連の通り魔殺人事件を踏まえている。そうみてよいだろう。
これらの事件を思い起こしてみると、いずれの事件にも共通しているのは、犯人が自殺の巻き添えに他人(ひと)を殺したとみられることだ。死刑に処せられることで、間接的な自殺をめざしたようだ。もちろん、それが動機のすべてではないだろうが、逃亡するという計画はなく死刑か服役以外の結末以外を彼らも考えなかっただろう。
自殺というのは、字の通り自分で自分を殺すことにほかならない。自分の死や命を重く受け止めていないから、他人(ひと)の死や命も重く思えない。自分を殺すのだから、他人(ひと)を殺すのもその延長だ。そう彼らが考えたかどうかはわからないが、そうした推測が成り立つとすれば、まず、彼らにいうべきことは、順序として、自分を殺すな、死ぬな、ということだろう。
もし、それを言う機会があったとしたら、まだ彼らは事件を起こしてはいないのだから、誰でも、まず、君の命は重い、だから君を殺すな、と言うだろう。そう言ったり言いそうな人間は、この映画には一人も出てこなかった。もちろん、桜宮正義先生や寺田良輝先生はそう言ってきただろうし、娘を殺される前なら、森口悠子先生もそう言っていたかもしれない。
一般論として、教育の言葉として。他人(ひと)の命の重さに気づかせるためのレトリックとして、「自分を大切に」という、あれだ。学校という集団生活、社会という共同体を営むためには、まず他人(ひと)に迷惑をかけず、それがまわりまわって自らの安全や安心につながるというルールを学ばせるために、「自分を大切にできない人間は、他人(ひと)を大切にできない」と語られる。
しかし、自殺の巻き添えに見知らぬ他人(ひと)を殺そうとする若者が眼前にいたとしたら、同じように、他人(ひと)の命は重い、命は大切だ、と言うだろうか。言えるだろうか。あるいは、自殺するとしても、他人(ひと)を巻き添えにするな、というだろうか。俺だけでなく誰でも、まず自殺するな、と説得するだろう。君の命について君がどう思おうと、君の命は重く大切だ、と言うだろう。
お前は、ウェルテルかと鼻で笑われるかもしれない。どのようにいっても、相手には届かないかもしれない。一般論や教育の言葉として発語しているわけではないが、効果はあまり期待できないだろう。結局、俺の命が大事、誰の命より、俺の命が重い、そう思うのは自分自身しかいないからだ。俺以外の人間で、俺ほど俺の命を、大事に思ってくれる人が、例外的にいるとすれば、近親だけだろう。
直樹の母下村優子だけは、直樹の命の重さ、大切さを、自分のことのように思っていた。「直樹は優しいよい子」という彼女の譫言(うわごと)は、「直樹の命が大事、誰の命より、直樹の命が重い」と同様である。したがって、ただのエゴイスティックで愚かな母親という描き方は皮相に思える。この下村母子、渡辺母子、森口母子と、母子の関係を分担して描いたことで、それぞれが一面的になったことが、この映画への最大の不満だ。
さて、「俺」の命は重いか。「汝の隣人を愛せ」というイエス・キリストの言葉が伝えられているが、これが一般論ではなく、教育の言葉でもないのは、「汝自身を愛するように」と付言されているからだ。汝に限定し、汝のエゴを認めているからだ。イエスなら、やはり、直樹の母のように、直樹にいうだろう。「お前の命は、欠けがえのない大切なものなのだ」と。
「人を殺しても少年法によって守られる」というセリフが繰り返し出てくるように、加害者に対して被害者の非対称な「命の軽さ」を指摘し、他人(ひと)の命を軽く考えてはいけないとはしているが、「命の重さ」にまでは下りていないと思えた。「命の軽さ」には、関心の持ちようがない。俺の命が大事、誰の命より、俺の命が重い。俺はそう思っているからだ。
「よくまとまっている」といわれた場合、一般的に、褒め言葉ではないことが多い。かといって、貶しているというほどでもない。あまり、関心を抱けなかったというのが近いだろう。監督の中島哲也は、あの傑作「嫌われ松子の一生」(2006)を撮っているから期待したのだが、残念だった。
(敬称略)