ちょっと違った視点の記事も出ていた。
窪田順生の時事日想:
桜宮高校バスケ部キャプテンの自殺の原因は「体罰」ではない (1/4)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1301/15/news022.html
しかし、「いじめ」「虐待」「見せしめ」と指摘されても、「そういうことも、ときには必要なんだよ」という人が、あいかわらず過半数を占めるだろうと。「体罰」から「虐待」まで、彼らは「暴力」を擁護・支持していると思う。
むしろ、暴力を肯定せずに、ひとしく否定する人々に、心中ひそかに呆れているくらいなのだ、彼らは。日常的に暴力を受け続けることでしか、けっして得られない能力があることを彼ら肯定派はよく知っているのだ。
まず、暴力に対する耐性がつく。殴られ続ければ、多少殴られたぐらいでは怯まなくなる。
チンピラの兄貴分が子分をシバくのは、たいてい建前としては「体罰」であり、ときに「見せしめ」という政治的な公開処刑だったりするが、ただ「憂さ晴らし」のための「いじめ」「虐待」であるときも、基本的には暴力に怯まない訓練だという正当性については、揺るぎなく信じているものだ。
もちろん、これにはすぐさま、いくつもの反論が寄せられるだろう。たとえば、暴力を受けた側は、心身ともに傷つく、云々と。肯定派は鼻で笑うだろう。肯定派と否定派が分かれるのはここだ。否定派は個人を念頭しているのに対し、肯定派は集団、組織のなかの個人を前提にしているからだ。議論は平行線をたどるしかない。
個人としては、誰しも暴力を受けることは苦痛であり、できれば避けたい。それは肯定派とて変わりはない。しかし、集団や組織として、競技や競争に参加して勝つためには、いかなる名前で呼ばれようと、暴力そのものか暴力的言動による恐怖の導入によって統制管理する手法は避けがたい。もちろん、程度の問題や用いる巧拙はあるだろうが。彼ら肯定派はそういうはずだ。
暴力を受けることによってその耐性が養われる。たしかに心身ともに傷つくが、心身ともに再生して増強するはずだ。鍛えられるのだと肯定派は考える。それは暴力に耐える受け身の能力だけを指すものではない。暴力に耐えることによって、暴力の度合い、加減というものを肌身で知ることができる。それは同時に、自らが暴力を振るう場合にも、冷静に行使できる精神と身体能力を身につけることでもある。暴力を受ける耐性は、暴力を行使する耐性につながる。
さすがに肯定派も、ここまであからさまにはいわないが、ビンタにはじまり、鉄拳制裁、ケツバットや袋だたきまで、激しい暴力の洗礼を受けることによって、身体の痛みを我慢し恐怖心を抑え、反撃の機会を冷静にうかがう精神を養うことができる。つまり、暴力が自他にもたらす苦痛や恐怖心を研ぎ澄まし、鈍磨させる。じっさいに暴力を受ける以外の訓練によって、この感覚を獲得することはできない。そう信じられている。
もうお気づきだろう。これは兵士になるために必要な訓練なのだ。戦争をするための準備なのだ。兵士は、機械的に自らの苦痛と恐怖心に耐え、機械的に敵に苦痛と恐怖心を与えることに、耐えねばならない。自他の苦痛と恐怖心を平準化すること。その閾値が以下であってはけっしてならないが、以上であってもならない。暴力の負荷なくして、閾値をはかることはできない。
したがって、否定派がよく引き合いに出す、一流のアスリートになるためには、並外れた向上心や自発性が必要であり、それには「体罰」は逆効果を及ぼすという反論などは論外なのだ。話題になった桑田投手の談話などでは、肯定派をたしなめることはできない。戦いに必要なのは兵士であり、戦うのは兵士だけだからだ。
もうお気づきだろう。残念ながら、私たちは軍隊以上の組織論を持たず、兵士以外の組織人論を持っていない。軍隊に限らず、役所も会社も学校も、軍隊にならった組織論を援用しているに過ぎず、そこでは兵士以外の訓練が施されることはない。理念型としてすら、軍隊や兵士を越える組織論や組織人を私たちは見い出していない。
軍隊以外の組織論を持っていないとは、私がいっているのではなく、すでにマックス・ヴェーバーが100年前にいっているわけです。肯定派も、軍隊以外の組織はどこにもないと知っているだけです。否定派はしかたなく、「体罰」をくわえたものを「体罰」するという行政に与するしか、とりあえず態度のとりようがありません。ただし、それは筋の通らぬ矛盾であり、軍隊以外の組織をつくらぬかぎり、暴力の連鎖は断ち切れない、そうした事実から眼を背けず、個人としては断固として暴力の行使を忌避する姿勢を表明するしかないでしょう。
窪田順生の時事日想:
桜宮高校バスケ部キャプテンの自殺の原因は「体罰」ではない (1/4)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1301/15/news022.html
しかし、「いじめ」「虐待」「見せしめ」と指摘されても、「そういうことも、ときには必要なんだよ」という人が、あいかわらず過半数を占めるだろうと。「体罰」から「虐待」まで、彼らは「暴力」を擁護・支持していると思う。
むしろ、暴力を肯定せずに、ひとしく否定する人々に、心中ひそかに呆れているくらいなのだ、彼らは。日常的に暴力を受け続けることでしか、けっして得られない能力があることを彼ら肯定派はよく知っているのだ。
まず、暴力に対する耐性がつく。殴られ続ければ、多少殴られたぐらいでは怯まなくなる。
チンピラの兄貴分が子分をシバくのは、たいてい建前としては「体罰」であり、ときに「見せしめ」という政治的な公開処刑だったりするが、ただ「憂さ晴らし」のための「いじめ」「虐待」であるときも、基本的には暴力に怯まない訓練だという正当性については、揺るぎなく信じているものだ。
もちろん、これにはすぐさま、いくつもの反論が寄せられるだろう。たとえば、暴力を受けた側は、心身ともに傷つく、云々と。肯定派は鼻で笑うだろう。肯定派と否定派が分かれるのはここだ。否定派は個人を念頭しているのに対し、肯定派は集団、組織のなかの個人を前提にしているからだ。議論は平行線をたどるしかない。
個人としては、誰しも暴力を受けることは苦痛であり、できれば避けたい。それは肯定派とて変わりはない。しかし、集団や組織として、競技や競争に参加して勝つためには、いかなる名前で呼ばれようと、暴力そのものか暴力的言動による恐怖の導入によって統制管理する手法は避けがたい。もちろん、程度の問題や用いる巧拙はあるだろうが。彼ら肯定派はそういうはずだ。
暴力を受けることによってその耐性が養われる。たしかに心身ともに傷つくが、心身ともに再生して増強するはずだ。鍛えられるのだと肯定派は考える。それは暴力に耐える受け身の能力だけを指すものではない。暴力に耐えることによって、暴力の度合い、加減というものを肌身で知ることができる。それは同時に、自らが暴力を振るう場合にも、冷静に行使できる精神と身体能力を身につけることでもある。暴力を受ける耐性は、暴力を行使する耐性につながる。
さすがに肯定派も、ここまであからさまにはいわないが、ビンタにはじまり、鉄拳制裁、ケツバットや袋だたきまで、激しい暴力の洗礼を受けることによって、身体の痛みを我慢し恐怖心を抑え、反撃の機会を冷静にうかがう精神を養うことができる。つまり、暴力が自他にもたらす苦痛や恐怖心を研ぎ澄まし、鈍磨させる。じっさいに暴力を受ける以外の訓練によって、この感覚を獲得することはできない。そう信じられている。
もうお気づきだろう。これは兵士になるために必要な訓練なのだ。戦争をするための準備なのだ。兵士は、機械的に自らの苦痛と恐怖心に耐え、機械的に敵に苦痛と恐怖心を与えることに、耐えねばならない。自他の苦痛と恐怖心を平準化すること。その閾値が以下であってはけっしてならないが、以上であってもならない。暴力の負荷なくして、閾値をはかることはできない。
したがって、否定派がよく引き合いに出す、一流のアスリートになるためには、並外れた向上心や自発性が必要であり、それには「体罰」は逆効果を及ぼすという反論などは論外なのだ。話題になった桑田投手の談話などでは、肯定派をたしなめることはできない。戦いに必要なのは兵士であり、戦うのは兵士だけだからだ。
もうお気づきだろう。残念ながら、私たちは軍隊以上の組織論を持たず、兵士以外の組織人論を持っていない。軍隊に限らず、役所も会社も学校も、軍隊にならった組織論を援用しているに過ぎず、そこでは兵士以外の訓練が施されることはない。理念型としてすら、軍隊や兵士を越える組織論や組織人を私たちは見い出していない。
軍隊以外の組織論を持っていないとは、私がいっているのではなく、すでにマックス・ヴェーバーが100年前にいっているわけです。肯定派も、軍隊以外の組織はどこにもないと知っているだけです。否定派はしかたなく、「体罰」をくわえたものを「体罰」するという行政に与するしか、とりあえず態度のとりようがありません。ただし、それは筋の通らぬ矛盾であり、軍隊以外の組織をつくらぬかぎり、暴力の連鎖は断ち切れない、そうした事実から眼を背けず、個人としては断固として暴力の行使を忌避する姿勢を表明するしかないでしょう。