「人生には、それ自体の報酬があります」私が反撃した。「私は人々の生活の中に入り込み、また出ていくのが好きなのです。一定の場所で、一定の人間たちと生活するのに、退屈を覚えるのです」「それがあなたの真の動機じゃないわ。私には、あなたのようなタイプがよくわかるの。あなたは、正義に対するひそかな熱情を抱いている。正直に認めたらどう?」「私は慈悲に対してひそかな熱情を抱いている。しかし、人々に起きるのは、正義にもとづく報いなのです」
『別れの顔(THE GOODBYE LOOK)』
(ロス・マクドナルド 菊池 光 訳 ハヤカワミステリ文庫 1977年)
この文庫本の解説が変わっている。解説のタイトルは、「W・ゴールドマンの『別れの顔』の書評」。1969年に、ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューのフロントページに掲載された書評を解説しているのだ。おまけに解説者は匿名の(S)である。『マラソン・マン』の作者で、「明日に向かって撃て」や「遠すぎた橋」の脚本化でもあるウィリアム・ゴールドマンはこう書評した。
"死体(デッドコープス DEAD CORPSE)"という言い方は二重の言い廻しではない。というのは、ロス・マクドナルドの小説では単に"死者(デシードDeathed)"というのでは足りないからだ。登場人物の誰もかれもが死んでいるか、死につつあるからである。
(中略)
そして彼らは何か怖ろしいことを行う。彼らは殺し、盗み、他人を装う。あるいはその三つを行う。彼らに働きかけるのは、荒々しい、どうしようもない推進力だ。彼らがこうしたことをする理由が、ときに金や欲望や権力にあることもないわけではない。しかし、彼がそうするのは、大部分愛のためだ。そして、彼らは結局やりとげる。あとは、静かになる。
しかし、それはアーチャーが来るまでのことだ。
(中略)
幽霊<ゴースト>が彼のテーマである。
ここからは、匿名解説氏(S)によるゴールドマン書評の解説である。
ゴールドマンは『別れの顔』に現われたこうしたハードボイルド的要素やベッドシーンについて検討しながら、それは本質的なものではないとし、彼の最近の小説はハードボイルド小説から遠く離れていて、むしろ彼が書いているのは、幽霊<ゴースト>に憑かれた人々なのだと結論する。
(中略)
一九六九年はフィリップ・ロスの『ポートノイの不満』が評判をとった年であった。ゴールドマンは、本屋の店頭に溢れている五十冊目のマスターベーション小説が批評家たちから”重要だ”とか”意義深い”とか”輝かしい”とか賞賛されていることを皮肉って、このような退屈な小説を書く小説家と比べて、マクドナルドは非常に慎み深い小説家だと書き、彼をどう分類してもかまわないが、マクドナルドは現在活動中の最良のアメリカ人作家のひとりである、と結んでいた。
レイモンド・チャンドラーとフィリップ・マーローは、もちろんグレイトである。リスペクトされるべきだ。だが、ロス・マクドナルドとリュウ・アーチャーは、レイモンド・チャンドラーとフィリップ・マーローより、読者からずっと愛されている気がする。ゴールドマンが、「大部分愛のためだ」と指摘したような「愛」だから、「ロスマク好きなんだよねえ」とは吹聴できない、ステロイド軟膏が必要な炎症のような「愛」ではあるが。したがって、レイモンド・チャンドラーとフィリップ・マーローのようには、ロス・マクドナルドとリュウ・アーチャーは、熱意を込めては語られない。尋ねられれば、「ちょっと陰惨だからね」と言葉少なに答えて、それ以上の話を打ち切るものなのである。「ロスマク炎」に罹ったなら。
(敬称略)
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