コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

この母子に限らず

2010-08-15 00:36:00 | ノンジャンル
http://news.livedoor.com/article/detail/4927689/

母親が風俗嬢だったおかげで、鬼畜のようにいわれているが、乳飲み子と幼児を抱えて女一人なら、つねに生き死にに直面していたであろう。「常在戦場」とか張り紙している会社で、生き残りをかけて死に物狂いで働け、と尻を叩かれている男の帰りを待つ妻が、いっそこの子を殺してしまおうかとふと考えたことがあるなど、おおかたは想像の外なのだろう。その想像力の欠如を埋めるのが、児童相談所ではないかと考える振りは止めたほうがよい。会社を首になったら、ハローワークがあると本気で考えているのなら別だが。死ぬも殺すも行く先は地獄。そして、板子一枚下は地獄なのである。漁師に限らず。

ネコ缶が好物のエビに脱帽

2010-08-12 18:48:00 | レンタルDVD映画



笑える快作第9地区である。舞台は南アフリカの大都市ヨハネスブルグ。その郊外に飛来したUFOに乗っていたエイリアン130万人(?)の居住区がある。1、2人(人?)なら、「未知との遭遇」だが、130万人(?)ともなれば、スラムに棲み、ゴミ漁りで食いつなぐ、不潔と治安を脅かす、「エビの化け物130万匹」である。そこで、より内陸部の荒野に居住区第10区が設営され、強制移住がはじまった・・・。という予告編は観ていた。

ついこの間まで、アパルトヘイトが法律であった南アフリカで、いまも貧しい黒人たちがエイリアンに向かうわけだから、差別と迫害をアイロニカルに扱ったイヤな映画かと思っていたら、TVのドキュメンタリ番組を模した出だしは、その予想を裏切らなかったものの、おいおい、そっちへ行くの、えっ、感染物なの、あれっヒーロー物なの、あららこららの馬鹿馬鹿しさ一直線! 

その醜悪凶悪な外見に似合わず、キャットフードのネコ缶が好物で、ネコ缶一個のために、黒人ギャングから食い物にされ、役人から騙されたり、ちょっと頭の足りないエイリアンばかり、笑える笑える。こんなアホ映画を大予算で製作し、差別と迫害がテーマのようなシリアスな予告編をつくり、TVインタビューをコケにし、観客にエビを食えなくしたわけで、まことに人を食った映画である。

もうひとつ微笑むことができるのは、サッカーW杯の成功に続き、いまの南アフリカの人々には、この映画を観て笑うことができる、それだけ余裕があるってことだ。「インビクタス/負けざる者たち」は、かなり分が悪いことになった。

ノーモアヒロシマ ワンモアナガサキ

2010-08-08 21:24:00 | ノンジャンル
タイトルは、「戦場のメリークリスマス」撮影時に、外国人スタッフに披露したというビートたけしのギャグ。まったく、ウケなかったそうだ。



http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news/20100807-OYT8T00010.htm

 アメリカのルース駐日大使が、広島の原爆式典に参列したとTVがその顔を嬉しげに映していた。高校野球も観戦したと喜ばしげに報じていた。これを宣撫工作といい、この報道を宣撫効果という。昔、PR業界の末端にいたから、「またやってら」と思いつつ、少したってから、「もしかすると」と怖気をふるった。イスラエルのイラン核攻撃が近いのではないか、その布石の一つではないかと。宣撫工作もPRも、事前か事後に実行されるものと決まっているからだ。杞憂であればいいのだが。

ルース大使が、「過ちは繰り返しませぬから」という碑文をどのように読んだか。相変わらず、訊ねてみる記者は一人もいなかったのだろうな。英語が得意という者も少なからずいただろうに。英語を話すということが、どういう意味と作用を持つか、英語を話す者には、ついに自覚できないのだろう。もしかすると、自分たちは宣撫班ではないのかという疑問も。

インビクタス/負けざる者たち

2010-08-07 01:10:00 | レンタルDVD映画
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たとえば、この2つが気になった。
http://wwws.warnerbros.co.jp/invictus/

たとえば、南アフリカ共和国の団結のために、国民へ寛容を説くマンデラ大統領は、大統領の官邸スタッフを入れ替えなかった。白人スタッフが馘首され、マンデラが引き連れてきた黒人たちが取って代わるということはなかった。ちなみにアメリカの場合、大統領が替われば、政府高官はもちろん、官邸スタッフも総入れ替えされるのが通例だ。

暗殺の危険は十分にあったのに、ボデーガードも白人と黒人が一緒のチームを組んだ。当然、当初はたがいに冷ややかな関係だ。ところが、ラグビーのW杯で弱小とされた南アフリカチームが勝ち進むに従って、両者はじょじょに打ち解けはじめる。顔を背け合ってきた黒人と白人のボデーガードがにっこりと微笑み合い、握手を交わす。

たとえば、W杯の会場周辺に、観客が捨てた物や落とし物を漁る貧しい黒人少年がうろついている。警備に動員された白人警官たちは野良犬を追い払うように、黒人少年をじゃけんに扱う。ところが、南アフリカが勝ち進み、決勝戦を闘い、優勝するや、熱狂した警官たちは、黒人少年を肩車して群衆の中を練り歩く。

あるいは、南アフリカチーム主将家族の黒人メイドに、ピナール主将が貴重な観戦チケットをプレゼントする場面。主将家族の一員のように、観客席からチームを応援する黒人メイドの喜びに溢れた顔、というエピソードをさらに加えてもよいだろう。

たとえば、これらがエピソードではなく、スナップとして扱われていればと思った。それほど、実話原作を元に脚本化しただけに、類型的なエピソードを積み重ね、盛り上げていくドラマ的な手法を排して、記録映画や再現ドラマのような、客観的な構成とストイックな演出に徹底していた。

ピナール主将役のマット・ディモンは、無骨で口下手なラグビー選手らしく、ほとんど無表情にして、アップは皆無だったはずだ。にもかかわらず、「ドライビング・ミスデイジー」のような、いかにもハリウッド的に低俗な和解と融和のエピソードを採用したのか疑問に思った。

同じ違和感を、「グラン・トリノ」や「硫黄島からの手紙」にも感じたが、もちろん、この前二作を含め、今回の「インビクタス/負けざる者たち」も、けっしてわるくはない映画だった。モーガン・フリーマンの優雅な雄弁家ぶりを見るだけでも価値があることは間違いない。

サックスを3本、フルート1本を一人が演奏するからいっても、世界びっくり人間の登場ではありません。

Roland Kirk Quintet - Three For Festival / Volunteered Slavery@ Bologna 1973 pt2


ヴィヨンの妻ならず

2010-08-05 19:44:00 | レンタルDVD映画


もっと笑えて可笑しい映画にできたはずだ。

場末の小料理屋で泥棒を働いた上に、それを咎められて狼藉までしでかそうとした夫に代わり、「出るところへ出て決着をつけるしかない」と息巻く小料理屋主人夫婦(伊武雅刀、室井滋)に詫びる、佐知(松たか子)の口上と三つ指ついた凛としたお辞儀が見事。歌舞伎座なら、「高麗屋っ」と屋号を呼びたいところだ。

夫の大谷(浅野忠信)が2年も勘定をためたあげく、大事な仕入れの金を眼前でわしづかみにされて逃げられた子細を聞くうちに、非現実的なまでの被害者ぶりに呆れ、思わず吹き出してしまう佐知につられ、笑ってしまうところがいくつかあった。この落語の世話物みたいな出だしのまま、語ってほしかった。

当然、冒頭の幼少時の津軽の思い出は要らない。この物語は、中野三鷹間の中央線沿線をおもな舞台にした、貧しい大谷夫婦の「東京物語」であるべきだった。津軽の風土とはまるで関係ない。昭和21年(1946年)の東京風景のセットに凝った意味がない。

松たか子の銘仙(たぶん)の着物姿(浴衣も含む)が美しい。匂い立つような若妻の色気と明るい笑顔に参らない男はいないだろう。そう美しくもセクシーでもない女優なのだが、着物と着こなし(着くずし)の威力というものだろうか。それだけでなく、若く美しい母の面影が重なるから、男にとっては抵抗しがたいのである。

「僕は怖い、怖いんだ」と妻佐知にむしゃぶりつき、身体をまさぐる夫大谷が幼児じみているだけでなく、それを見ている男児の明らかにセクシャルな視線をカメラワークは借りている。夫を受け入れる母のしどけない後ろ姿。隣の部屋からは、その半身しか見えない。浴衣のはだけた肩から腰に至る優美な線に眼を奪われる。

父によって犯される母を、視ることによって犯している幼児期の記憶。実際にそうした出来事や記憶があるかどうかは別にして、深い場所に刷り込まれている官能なのである。いまだ幼児でしかない男といまだ幼児である男によって、賛仰される母親が佐知という構図である。しかし、その聖母像に流れるところが不満なのだ。

「どうか、警察沙汰だけは待ってください」と盗んだ金が届くまで人質として小料理屋「椿屋」で働かしてくれと押しかける女房の機転。金が届く当てなどないのに、必死のその場しのぎ。実は似た者夫婦なのである。美人で気だてのよいお運びの「さっちゃん」の登場に、男たちがつめかけ繁盛する酒場と活き活きと働き出す佐知。

むさくるしい客たちのなかで、佐知に思いを寄せる工員の岡田(妻夫木聡)、弁護士の辻(堤真一)も、やはり健気に働く母を慕うかのようだ。大谷と佐知という不安定な夫婦の物語でもあったはずなのに、岡田との不倫を疑う大谷も、妻への憤りというより、自分だけを愛してくれるはずの母の裏切りに拗ねているようにしかみえない

四谷怪談のお岩と伊右衛門のような、嫉妬し嫉妬されるセクシャルな関係でありながら、必死の生活の伴走者であり、男児の父母であり、たがいを尊重する親友でもある。そんな複層する交わりを夫婦の可笑しみに昇華することも、どこかでできたはずだった。

佐知に纏わる視線が、母親と男の子の官能的な「肉体関係」を表すにとどまるから、辻に身を投げだす覚悟で、パンパンから入手した口紅を佐知がさす場面が、妻や母から女への変身を象徴せず、わざとらしい演出という印象を残してしまう。

「夫に心中された妻はどうしたらいいんですか」という佐知の問いかけも、「私、自惚れていました。あなたに愛されていると思っていました」という佐知の哀しみも、どこか空回りしてしまうのは、佐知と大谷がなかなか夫婦に見えないからだろう。

桜桃を分け合って食べる睦まじい姿も夫婦には見えず、「生きていけばいい」という佐知の言葉が夫婦の和解に向けたものではなく、つい母親めいた励ましに聞こえてしまうのは、佐知が大谷、岡田、辻と男女のエロチックな関係を結んでいないからだろう。

工員の岡田に大谷とのなれそめを尋ねられて、自らの万引き事件を自信に満ちて明るく語り出す鮮烈な佐知。万引きをする動機となった辻について、大谷と出会った後では、「どうして、あんな人が好きだったんだろうと不思議でした」とあっけらかんの佐知。

つまり、常軌を逸しているようで、実は世間の常識に囚われている大谷に対し、その大谷に付き添うという形で、すでに常軌を逸している佐知本来の可笑しさこそ、母子像を超えて夫婦像に近づく展開だったように思える。

行き場もなくガード下に佇み、手を握り合う佐知と大谷。30歳の声を聞く夫婦のはずだが、二人はまだ少年少女のように不安定だ。(私たちは、夫婦になれるのだろうか)という二人の心中の声が聞こえてきそうだ。なるほど、これは大谷夫婦の物語ではなく、夫婦の始まりの物語なのかもしれない。大谷に先んじて、一足先に大人になろうとしている佐知によって、「生きていけばいい」という自覚から始まるのだから。

私にとっては、「遠雷(1981)」以来の根岸吉太郎作品。松たか子以外にほとんど印象に残らないのは、はたして映画としては成功したといえるかどうか。大魚を逃した観がする。太宰治『ヴィヨンの妻』の映画化。文芸作品の映画化という期待値を裏切り、、副題の「タンポポと桜桃」だけでよかった気もする。

浅野忠信の朗読のような棒読みは、やはり気になる。「僕はずっと死にたいと思ってきました」なんてセリフを感情を込めては言えないだろうが、自虐的なセリフが可笑しみを誘うくらい、浅野忠信が大人の男の色気を出せればよかったのだが、ときに中学生のように少年ぽい。

どうして、浅野忠信は、正月みたいな着物を着っぱなしなのと?の娘たちも多いだろうな。堤真一の三つ揃いより、浅野忠信のよれよれの着物姿のほうがずっとかっこよいのがわかるといいな。どうせなら、ついでに、かっこよい股引姿もみせてほしかった。

暗く悲惨な貧乏物語ではない。タンポポの向日的な明るさと桜桃の清冽な官能を合わせ描いた、得がたい女性(女優)映画だった。松たか子には、ぜひ、満願の若妻も演じてほしいものだ。

「ゲゲゲの女房」の豊川「少年ランド」編集長が、やはり編集者の役でちょっと顔出しているのも嬉しい。もしかすると、この役をきっかけに抜擢されたのかもしれない。

(敬称略)