『風よあらしよ』を読んで、伊藤野枝の生涯を知った。野枝は大杉栄とともに惨殺され死体遺棄された。陸軍軍人拘束され、殺されたことは知っていたが、そこまでむごいとは知らなかった。怒りがこみ上げる。
伊藤野枝の存在を知ったのは、『美しきものの伝説』というお芝居だった。大学生のころだったか、勤めてからだったか、今となっては内容もよく覚えてはいない。そのときも私は怒っていたのだろうか。
『吹けよあれよ風よあらしよ 伊藤野枝選集』によって、『風よあらしよ』は野枝自身の書いたものを忠実に小説に活かしていると思った。
上記の選集に罷工(ストライキ)の工場労働者の女性のこんな言葉がある。
「私たちは楽に働けるようにしようなどとは考えたこともなかった。けれども考えてみると、私達はできるだけ楽に働けるようにつとめなければならない。それは直接自分達のためでもあり、また後からくる若い人たちに是非必要な事だ』(240ページ「婦人労働者の現在」『青鞜』第6巻1号1916年)
働く女性のおかれる立場は、当時に比べれば良くはなった。けれど必要な区別ではなく、いわれない差別は依然としてある。「自分のため」というより後に続く人たちのために、しなければならないことがある。
また野枝は家庭生活について言う。
「けれど、私達の『家庭』という形式を具えた共同の生活が、いつの間にか、私をありきたりの『妻』というものの持つ、型にはまった考えの中にいれていたのです。(247ページ「『或る』妻から良人へ―囚われたる夫婦関係よりの解放」『改造』第3巻第4号1921年)
私達は簡単に「いつの間にか、私をありきたりの…型にはまった考え」に陥いるのだ。
絶えず「型にはまった考え」に囚われていないか、自分自身をふりかえってみる必要がある。
そして、「しかたない」とあきらめないこと。
もう「闘う人生」はもうごめんこうむりたいと思っていたが、この社会でやはりそうはいかないらしい。
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