ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

「マウントをとらせない」ということ

2021-10-25 10:33:06 | 日記・エッセイ・コラム
「女だから」のマウント取らせない 39歳CEO、男社会との闘い方
2021年10月25日 朝日新聞デジタル

ベンチャー企業「リリーメドテック」CEOの東志保さん(39)へのインタビュー記事より、以下引用。

*****
あからさまなセクハラやパワハラは受けませんでしたが、人は弱みを見せるとすぐマウントを取ってくるので、相手からマウントを取られないように気をつけていました。

 大事なのが、自分が「賢い」と周囲に思わせることです。

 ふざけた態度を取ってくる相手にはピリッと返し、「この人にけんかを売ってはまずい」と思わせないと、相手はどんどんつけあがってくるわけです。」
*****

これを読んだ時、私は高校教師時代の自分を思い出していた。
自分が「猿山のボス」だと感じ、そうでなければ授業が成り立たないと思っていた時期があった。

教員になりたてのころは、右往左往する毎日だった。
授業中、授業を聞かない生徒多数。
授業が下手なのだから当然と言えば当然なのだか。
時にはお喋りでうるさく、放置すれば授業崩壊になりかねない。
それを防ぐために、「猿山のボス」になろうとしたのだろう。

今から思えばこれは、「マウントをとられない」ために必死だったのか。
教員一年目。相手は2年生。学校では先輩。
若い女の教師に対して、生徒は(とりわけ男は)、マウントをとろうとしていたのだと思う。

経験をつむことで、生徒との対話が生まれ、「猿山のボス」感覚は消えていった。
歳を重ねたということかもしれなし、それはひょっとしたら、生徒の感覚から離れ「教師になっていった(意図せずマウントをとっていた)」ということなのかもしれない。

マウンティングとは、本来、動物が自分の優位性を誇示するために相手に馬乗りになることを指すそうだ。人間において「マウントをとる」とは、「周囲に(あるいは誰かに対して)自分が優位であることを示す」ことで、マウントを取られた側を利用したりコントロールしたりすることだと、私は思う。セクハラ、パワハラは「マウントをとる」側から「マウントをとられる」側にしかけられる。

本人に自覚が無くても、「マウントをとる」ことがある。女に対して男が。妻に対して夫が。子に対して親が。児童生徒に対して教師が。大学生や大学院生に対しても教員が。会社では上司が。看護婦や患者に対して医者が。一般市民に対して公務員が。

挙げればきりがない。
セクハラ、パワハラで告発された人が、「相手の同意があった」とか「相手に嫌と言えたはず」とか「これはしつけだ」とかいうのは、自分の立場に自覚が無いから。

「マウントをとる」ことにも「マウントをとられる」ことにも敏感でありたい。
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