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政商(昭和闇の支配者 二巻)という本はオススメ!

2011年03月11日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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 この本は、元総理の田中角栄と「刎頚の友」とまでいわれたいわゆる”政商”である国際興業グループのオーナーであった小佐野賢治の一生について書かれた本です。

太平洋戦争がはじまる年に会社を設立して戦争の拡大に合わせて儲け、戦後は米軍の指定商となって稼ぎ、朝鮮戦争やベトナム戦争ではバス業で儲け、そして日本国内ではバス業やホテルの買収、ハワイでのホテル王等となり国際興業グループを拡大させます。

 まさに昭和という時代に合わせて生き抜いた人生であり、その生き様はとても興味深いものがあります。


とてもオススメです!

 以下はこの本のポイントなどです。

・小佐野は、幼いときから食うや食わずの苦しさの中をのた打った。そのせいで、小学校を卒業すると、すぐに働かざるをえなかった。小佐野が山梨の田舎から上京すとき、文字を読めぬ父親の伊作は、小佐野を励ました。「いいこんでも、悪いこんでもいいから、日本一になってこい」小佐野は、故郷に錦を飾るため、人の何倍も頭脳を使い、ついに小佐野コンツェルンとまでいわれるほどの企業グループを創った。

・昭和16年(1941年)、太平洋戦争のはじまる年に「第一自動車商会」を創立するや、それから軍に食い込み、左官待遇で軍需省の民間嘱託となった。戦争の拡大に合わせ、儲けていった。昭和20年8月の敗戦と同時に進駐軍が入ってくるや、米軍の指定商となった。軍にかわって米軍に食い込み、稼ぎまくる。日本とアメリカの蜜月時代に、ピタリと歩調を合わせている。小佐野は、以後、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコのホテルを買収するなどして、アメリカを背景に儲けていく。昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。かつて太平洋戦争に乗じて財をなした小佐野が、朝鮮戦争を見逃すはずがなかった。すかさず、朝鮮半島に進出し、米軍基地内でバスを運行させた。昭和40年にアメリカ軍の北爆開始によってベトナム戦争が全面拡大した。小佐野は、これまたチャンス到来、と暗躍する。国際興業は、南ベトナム最大の米軍基地・ロンビン基地内で、米軍将兵輸送用バスの貸し付けと、バスの修理事業をはじめた。

・小佐野は、政界にも食い込んだ。特に”刎頚の友”田中角栄とも二人三脚で歩調を合わせて歩んだ。ついには昭和47年7月、田中を総理大臣にまで押し上げる。

・小佐野賢治は、大正6年(1917年)2月15日、山梨県東山梨郡山村で、小佐野伊作、ひらのの長男として生まれた。今は甲州市勝沼町となっている。

・小佐野は、ガキ大将であった。なにしろ、クラスで一番の体の大きさであった。同級生より1歳上に思われた。体つきは父親に似たのである。小佐野は、いつも、5、6人の子分を従えていた。特別な親友はいなくて、まんべんなく友達とつきあっていた。小佐野は、勉強はしなかったが、頭はよかった。47人中、10番以内には入っていた。得意な科目は算術であった。物事を、先に先に考えていた。体育も良かった。特に徒競走が速かった。学校の代表として郡大会や県大会に出ていた。相撲も強かった。

・「本郷商会」の関係者によると、小佐野は、他のどの店員よりも一所懸命働いた。小佐野は、朝はいちばん早く出勤し、夜もいちばん遅くまで働いた。小佐野は、よく同僚たちに、こういっていた。「なんとか親兄弟に、楽させてやりたいんずら。そのためだったら、なんでもするさ」

・小佐野は、中華民国湖北省陽新野戦病院に入院した。小佐野の行状にあきれていた坂本馬城という軍医は、ついに小佐野の訴えるとおり、「急性気管支炎」という診断書を書き、内地へ送り帰すことにした。ただし、その診断書には、「本人苦痛を訴えるも、所見なし」という一行が加えられていた。「お国のために死ぬなんて、馬鹿げたことじゃん。おれは、かならず内地へ帰ってみせる」とうそぶいて日本を発った小佐野の執念どおりになったのである。

・小佐野にとってさらに幸運だったことは、戦時下、議会が軍需注文に関する前渡金制度を決めたことだ。政府は、軍需会社に発注と同時に、発注額の4分の3まで前渡しをしてもよい、という制度である。しかも、使途をいっさい公表しなくてもいいのである。中佐クラスの切る伝票で、いくらでも支出できた。小佐野の父親の伊作が、「賢治は、陸軍の大佐だか中佐だかと親しくなって、その人たちの家まで建ててやったずら」と吹聴していたことが、あらためて意味を持ってくる。

・小佐野が田辺邸に通うのは、田辺七六から教えを聞くためであった。「小佐野君、これからの時代は、現金を持っていてもなんにもならない。いいか、これからは土地と株と宝石を買え。土地は戦争で焼けても残る。地価はかならず上昇する。株はインフレで上がる。宝石も値が下がることはない。これらは、大きな資産となるからな」さらに田辺はいった。「きみが将来、事業家として成功したいというなら、いろんな人物に会いなさい。そして先輩の意見を聞きなさい」

・ふつうの若者なら、いくら相手が天下の五島慶太といえども、足元を見て値切る。小佐野は、それを相手の言い値の500万円に、さらに1割の50万円を上乗せし、550万円を出したのである。小佐野は、ここぞ、と思うときにはカネを惜しまず注ぎこむ。そのあたりの読みは、ひときわすぐれている。なお、小佐野は、この強羅ホテルをすかさず米軍に提供した。「強羅ホテルは、最初からわたしの財産だったものではないので、GHQに無料で提供しましょう」小佐野は、GHQにたっぷりと媚びを売った。「ここで、アメリカ兵さんたちには、十分休息してもらって、よりよい日本国づくりに専念してもらいたい」戦争中は、さんざん日本軍でうまい汁を吸っておいて、アメリカ軍の天下になれば、180度態度を変える。利のある方につく、という政商ぶりをいかんなく発揮した。

・ふつうの人は、経営状態のいい企業や信用のある人にカネを貸し、左前の危ないところには、貸さないでしょう。小佐野は、逆なんです。潰れそうなところにカネを貸す。返せなければ、代わりに会社を丸ごと取ってしまう。そのほうが得だと、計算してやっているんです。

・小佐野は木賃宿で着るような、よれよれの絣のような着物を、いかにもだるそうに羽織っているのだった。英子は、富豪ということと、眼の前の小佐野の姿の落差に、とまどっていた。そのように、小佐野はカネは儲けていても、趣味や生活ぶりについては、まったく無頓着であった。

・小佐野という人は、インフレ論者というより、インフレ信仰者でした。借金できるときは、借金しまくれ、という人です。それにしても三和銀行は、小佐野に絶対の信用を置いていましたね。それはなぜかというと、じつに単純なことなんです。小佐野は、借金はするが、期限には、かならずそっくり返済するのです。もちろん、金利も払う。預金も、充分にする。これが、信用につながったのです。

・小佐野は昭和44年5月16、17日の両日にわたり、ハワイのサーフライダーホテル新館の開業披露パーティを盛大にひらいた。この晴れの宴に、小佐野は日本から150数人の招待客を招いた。それも、日本航空機を2機チャーターしてである。小佐野はしかし、政、財、官界の人物たちは、いっさい呼ばなかった。招待したのは、小学校時代の恩師であり、同級生、16歳で上京したときにいっしょに働いた人々、それに長年自分の足となってくれた運転手が中心であった。

・国際興業の始業時間は、8時45分である。小佐野は、朝の8時には必ず会社にきていた。小佐野と話をしようと思えば、朝の8時に国際興業に行けば、必ずつかまえることができた。小佐野は、役員など偉くなえばなるほど、朝は早く出るべきだ、と考えていた。ようするに、高給取りであればあるほど、それに見合うだけ働け、というのが小佐野の鉄則なのである。

・小佐野は、出社しても、会長室には絶対に入らなかった。始業の時間になると、一階の会長、社長室前にある応接セットに陣取った。必ずほかの役員が眼の届くところにいのである。応接セットの大きな机の後ろに上着をかけ、出社してくる社員みんなに「おはよう」と勢いよく声をかける。会社のどんな小さな状況でも、自分の眼で確認しておきたかったのである。

・小佐野は、小切手も印鑑も、全部自分で管理していた。経理部長にさえも預けなかった。小佐野は経理部長の報告を受けて、一枚一枚自分で小切手を切り、印鑑を押した。小佐野は、つげの印鑑を使用していた。それを力いっぱい押すものだから、つげの印鑑が少しカーブして見えるほどであった。小佐野は、出かけるときも、印鑑だけは自分で持って出て行ってしまう。事故が起きないよう、徹底的に自己防衛していたのである。海外に行くときまで印鑑を持って行った。もし事故が起きたとしても、経理部長に責任を取らせることはしない。自分が責任を取っておけば、一番安心である、と考えたのである。

・小佐野さんところに借金を申し込みに行くと、個室に通されて「いくら入り用か」と聞かれる。たとえば1000万円というと、「600万円ぐらいは、なんとかしよう」と、その約60%ぐらいを貸す。現金で借りたい方は、のどから手が出るほどほしい現金の山を見せつけられて、つい精一杯よい担保をいってしまう。しかし、ほとんどの者が、残りの40%のカネをほかで工面できずに、また小佐野のところにくるという。「なぜ小佐野さんのところにくるかというと、国際興業は、現金を蓄えているし、なんといっても小佐野さんがその場でOKといえば、役員会やなんだかんだといわずに、その場で工面してくれる。だから、危ない危ないと警戒しつつ、みな、結局、小佐野さんのところにきてしまう。2回目に小佐野さんのところへくると、また、ちょっと貸す。百万円ぐらい貸して担保を取り、手形で振り出してその場で割り引く。それを繰り返すが、絶対全額は貸さない。そして、借金を申し込んだ人の、他の財産は、根こそぎ、担保として、巻き上げてしまう。

・小佐野は、役員の退職金を現金で全額払うことをしなかった。2年ぐらいの先づけの手形で支払うのである。それはもちろん、カネがないからではない。役員は、会社の事情をよく知っている。小佐野の個人的なこともよく知っている。小佐野は、今後も国際興業に逆らえないように、口封じのために、わざとそのようにするのである。

・小佐野は、一度でも紹介を受けた人の名前と顔を、すべて覚えていた。小佐野は、名前を覚えるのも強いが、数字にも強かった。

・自分が長けていることもあり、小佐野は自分の部下を試すことも多かった。自分の才能をひけらかす、というのではなく、即答できるかどうか、を試すのである。すぐに答えなかったり、黙っていたりすると、出世ができない。

・小佐野はしばらくして落ち着くと、周囲の者たちにうそぶいた。「おれが30億だとか60億だとか使ったといわれてるが、そんなもんで天下を取れるんだから、安いもんだ。戦国時代は、相手の命を取らなきゃならなかったんだからな」こうして、田中角栄は、54歳で、史上最年少の総理大臣となった。小佐野は、その直後、側近に複雑な表情で、漏らした。「7票、票がちがっている。おれのところにカネを取りにきた議員の中に、福田派のカネと二重取りしたやつが、7人もいる。政治家ほど信じられないやつはいない・・・・・」

・小佐野は、田中角栄を訪ねてくるとき、かならず駐車場にいる警備員に声をかけた。「ご苦労さん」とか「いつも元気そうだね」とか、そのつど、軽い言葉と、小遣いがわりに寸志も出していた。小佐野は、盆や暮れのときの贈答品も欠かしたことがなかった。目上の者より、目下の者へのねぎらいを忘れなかった。また小佐野があまりに若者と気軽に話をするのにおどろいた。小佐野といえば、財界でも大変な地位に君臨している人である。その小佐野が、なんの抵抗もなく、庶民連中に細やかな気配りをする。小佐野は、そうすることによって、自分が評価される通常の効果の倍の効果がある、ということもわかっていた。それは、田中角栄もおなじだった。

・小佐野が博打に熱中したのは、なにより気が紛れるからである。小佐野は、趣味をほとんど持たない。週末ならばゴルフに行けるが、会社であいたほんの1、2時間では、することを思いつかなかった。小佐野は、役員たちを無理矢理誘って、花札をはじめる。駄目だ、とはいわせない。そして、負けのカネは負けとしてその場で現金を取る。その場でなければ、つぎの給料から差し引く。これが、小佐野の手なのである。彼は、つねづねいっていた。「カネを持たすと、ろくなことがない」小佐野は、博打をやるとかならず勝った。そして、役員たちからカネを巻き上げるのである。

・国会で、知りません、そのような事実はありません、というのは絶対にまずい。記憶にございません、といっておけば、つぎにまた調べられるとき「あのときは、記憶にありませんといったが、今度は思い出した」といえばいいんです」小佐野は、「勝った」と自信満々に答えた。小佐野は、こうして一貫して「記憶にない」を貫き、この言葉は流行語にすらなった。

・小佐野が、実業面で優れていたという点は、国際興業社内に献身的なブレーンを抱えていたからである。会社が成長するとき、ブレーンは、じつに献身的に働いた。ブレーンは、副社長の長沢良、日本電建の社長になった上原秀作、経理担当の専務石田昇。この3人は、小佐野のために献身的に尽くした。小佐野は学歴のない彼らを登用したことから、彼らも小佐野に恩義を感じ、その恩に報いようとしたのである。

・国際興業は、約50社のグループ企業を傘下に持ち、ハワイのシェラトンホテルなどの優良資産も保有していたが、小佐野賢治の死後、バブル崩壊による不動産事業の低迷で、経営不振に陥った。かつてまるでハゲタカのような乗っ取り、企業買収をすると見られていた小佐野賢治の会社が、いまや「ハゲタカ・ファンド」と呼ばれる外資のサーベラスの手に渡ることになろうとは、なんとも皮肉なことである・・・・・。


<目次>
はじめに
第1章 カネ儲けの嗅覚
 「戸のない家」に育った餓鬼大将
 「甲斐の山猿で終らんぞ」
 胸に刻みこんだ社長の対応術
 「店を計画倒産させ、自分のものにしたそうだよ」
 「かならず内地へ帰ってみせる」
 新兵失格
 「正直にやったって、馬鹿を見るだけだよ」
 賄賂で陸軍省に食いこむ
 「おれは、日本一にならんと気にいらん」
 「臨軍」で築いた巨万の富
 甘言はカネ儲けの常套手段
 ”幻の千円札”で買った3つのホテル
第2章 賄賂で築いた人脈
 ”強盗慶太”との運命的な出会い
 「小佐野君、これからは土地と株と宝石を買え」
 「木下藤吉郎の生まれ変わってきたような男だな」
 五島から譲渡されたバス事業
 「小佐野は、潰れそうなところにカネを貸す」
 「日本のカポネ」と元検事長のつながり
 GHQによる逮捕
 検事をとりこみモミ消し工作
 刑務所内の賄賂作戦
 受刑中に築地で宴会
 「小佐野さん、田中さん、手をつないで、仲よくやりなさい」
 失敗した初めての「乗っ取り」
 「上級華族のお嬢さんとしか、結婚したくないんです」
 剥げ頭を帽子で隠して見合い
 「刺身なんて、薄く切ってちょうどいい」
 「田中先生のためなら、うちのバスを提供しましょう」
第3章 暗躍する乗っ取り屋たち
 「日本からフォードを叩き出してやる!」
 三和銀行のバックアップでハワイに乗りこむ
 値切り倒してぼろ儲け
 バス商売で大博打
 五島慶太の北海道進出の陰で
 「定鉄を乗っ取ってはどうでしょうか」
 「おれにかわって北日本航空の買収に動いてくれ」
 五島が呑まされた「煮え湯」
 田中角栄の中越自動車乗っ取り計画
 「小佐野にはめられてしまった」
第4章 小佐野王国の誕生
 「経営に参加して新風を吹きこんでいただけませんか」
 堤康次郎との山梨交通紛争勃発
 火を噴いた株争奪戦
 「おれの持ち株の比率を下げようという陰謀だ!」
 「小佐野君、わしの全株をきみに渡そうじゃないか」
 「諏訪自動車が手に入れば、太平洋-日本海ラインができる」
 海外初の買収でシェラトンを圧倒
 ハワイのホテル王誕生
 三和銀行の村野辰雄との盟友関係
 京成電鉄株で児玉誉士夫に恩を売る
 富士屋ホテル買収で横井英樹に完勝
 「政治屋になるより、政治家を使った方がいいさ」
 田中角栄と組んだ大博打「虎ノ門事件」
 「頼む、日本電建を引き受けてもらいたい」
 「おれにゃあ品とか社会的道徳とか、いっさい関係ねぇ」
 アメとムチで組合員を骨抜きに
 「横井から株を巻きあげていただきたい」
 現場を離れてはものが見えない
 とどまるところを知らない猜疑心
 「秋北バス」の買収で東北進出
 「銀座の女にやったと思やいいや」
 「国際興業は、小佐野さんのワンマン経営だ」
 「花巻温泉」獲得で一大王国が実現
第5章 「ロッキード事件」と最後の野望
 ”刎頚の友”の総裁選に使ったカネ
 「田中総理大臣は、おれがつくったんだ」
 「総理、おれが買ったら、その20倍にしてみせるよ」
 「児玉誉士夫って人は、すごい人だよ」
 航空王への野望
 「小佐野のツケはハワイまで」
 ロッキード事件発覚
 「全日空の大株主であるあなたの援助をお願いしたい」
 「記憶にございません」
 「今度は20万ドルを受け取ったのを、思いだしました」
 一審で懲役1年の実刑判決
 引き裂かれた夫婦の信頼関係
 「信じられるのは、カネだけだ」
 「帝国ホテル」は最大の勲章
 ついに帝国ホテル会長に
 「やりたいときに、やりたいことをやっておけよ」
 「ハゲタカ・ファンド」の餌食に


面白かった本まとめ(2010年下半期)


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