<金曜は本の紹介>
「本能寺の変 -光秀の野望と勝算(樋口晴彦)」の購入はコチラ
この本は、明智光秀が主君である織田信長を討った「本能寺の変」について、その真実に迫った本です。
この本を読むと、「本能寺の変」は怨恨や謀略ではなかったということが分かりましたし、
①信長・信忠親子が無防備の状態で揃って京都に滞在していること(信忠の判断)
②誰からも警戒されずに京都近郊に襲撃部隊を集結させられること(信長の命令)
③柴田勝家などの重臣がいずれも遠方で活動中のためすぐには反撃できないこと
という謀反成功のための3条件が偶然にも満たされたことから、明智光秀がこの千載一遇のチャンスを逃がさず、ハイリスク・ハイリターンに人生を賭けられるベンチャー精神をもった武将だということが分かりました。
また、「本能寺の変」後に明智光秀の使者が毛利家ではなく豊臣秀吉に行った理由、織田信忠が安土城に逃げられず二条御所に籠もった理由、穴山梅雪が堺から帰国時に横死した真実などは、素直に納得しました。真実に近いと思います。
織田信長など戦国時代に興味がある方には、とてもオススメな一冊です!
以下は、この本のポイント等です。
・朝倉家を辞するに当たって、光秀は、新興勢力の織田信長ならば義昭の潜在的価値を理解してくれるはずと計算していただろう。それでも、朝倉家での安定した生活を捨て、浮き草のような浪人の境遇に逆戻りするのは大きな冒険である。つまり光秀は、「ハイリスク・ハイリターン」に人生を賭けられる大胆さ、これを現代風にたとえれば、ベンチャー精神を持ち合わせていたことになる。
・光秀を「保守的」とする見方も根拠がない。実際には、新しい時代を拓く革新性とそれを実現するだけの実行力を兼ね備えた人物だったと考えられる。それを証明するのが光秀が自らの居城として建設した坂本城である。この坂本城の特徴点は次に示すとおりだ。
①琵琶湖畔の平地に城を築き、商工業発展の基盤となる城下町を整備したこと
②領主の権威の象徴として、壮麗な天守を本丸に設置したこと
③家臣団の屋敷を場内に取り込み、防御施設と一体化させたこと
④外堀の脇(鉄砲の射程距離内)に北国街道を通し、さらに場内に船着場を設けることで水陸交通をコントロールして、攻勢時の部隊移動や防御時の交通封鎖を容易にしたこと
①、②は、城の役割を単なる軍事施設から「領国統治のための行政機関」へと昇華させるものである。③、④は、兵力の機動的・集中的運用という織田家の軍事ドクトリンを忠実に反映していた。1576年に築城された織田家の本拠安土城は、この坂本城の拡大発展型である。それどころか、以後に日本で建設された近世城郭の全てが、坂本城の模倣といっても過言ではない。
・光秀は、家臣の抵抗をものとせずに検地を断行した。それだけでも大したものだが、さらに一歩進んでいた。家中の軍法を制定し、検地で判明した知行高に応じて家臣たちに軍役を割り当てたのである。例えば、千石取りの家臣は、騎馬武者5人、旗指物を付けた足軽10人、槍を装備した足軽10人、幟を差した足軽2人、鉄砲足軽5人の計32人を動員するよう規定していた。つまり光秀は、検地という施策を通じて、財政基盤を確立しただけでなく、家中の部隊編成を統一したことになる。この検地システムの有用性に信長も着目し、光秀を「検地の伝道師」として各地に派遣するようになった。やがて検地は織田家中に普及し、後の豊臣政権において全国規模で展開されたのである。
・天正5年2月の片岡城攻めにおけるエピソードは、光秀の個人的な武勇を如実に物語るものだ。陣頭に立って部下を指揮する光秀に、敵方の武者が斬りかけてきて組み打ちとなった。光秀は凄まじい膂力で相手を鞍に押し付け、その首を掻き切ってしまったというのだ。ひ弱な文人どころか、一騎当千の強者であった。
・信長は、佐久間信盛を追放するに伴って、光秀に近畿方面軍司令官の地位を授けた。北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉と並び、家臣団の中では最高位である。所領の近江志賀郡・丹波計34万石に加え、丹後の細川家、大和の筒井家、そして山城衆などを与力に持ち、総戦力は約3万に達した。天正10年の時点でも、光秀に対する信長の信頼に変わりはなかった。同年正月の安土城での参賀において、最初に信長に拝謁する名誉を与えられたのは光秀である。
・フロイスは、光秀の人物像について、「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
・長篠戦の後、信忠は岩村城攻めに取りかかった。織田領内に打ち込まれた武田方の「楔」である岩村城は、日本の3大山城の1つとされる堅城であったが、信忠は城を厳重に包囲し、長期間にわたる兵糧攻めの末に陥落させた。これに喜んだ信長は、信忠に織田家の家督を譲渡するとともに、岐阜城と美濃・尾張両国を与えた。1大名としての織田家の運営は信忠に任せ、信長自身は天下人として総覧する形にしたのである。美濃・尾張両国を領する信忠の兵力は約3万人、それに加えて、実弟の信雄や信孝など織田一門衆もその指揮下に入った。総兵力は実に5万人に達し、どの方面軍をも大きく上回った。
・織田信忠は、嫡男という血統、配下の兵団の戦闘力、赫々たる戦功など、まさに織田帝国の後継者たる条件をすべて満たしていた。その圧倒的な権威の前には、羽柴秀吉などの方面軍司令官でさえもひれ伏すしかなかった。この信忠が控えている限り、たとえ信長の身に何か起きたとしても、織田家の屋台骨が揺らぐことはあり得なかった。
・本能寺の変の背景として、将軍義昭や朝廷などが黒幕となって光秀に謀反をしそうしたとする謀略説も色々と提唱されている。しかし明智光秀という武将は、決して権威に対して従順というわけではなく、また、他者にたやすく誘導される未熟な人物でもないことは、序章で解説したとおりだ。その意味で、謀略説はその前提からして間違っている。義昭黒幕説については、天正元年に光秀が義昭を見捨てて信長方についた経緯から見て、今さら義昭に忠節を尽くそうとしたはずがない。朝廷黒幕説については、そもそも朝廷側に信長を謀殺する理由がない。論者が指摘するように、朝廷との間に若干の懸案が存在したことは事実であるが、決して深刻な対立というわけではなかった。
・本能寺の変が発生した際、誠仁親王が「自分も切腹しなければいけないか」と光秀に質問した事実があるが、これは親王御自身が織田方との深い関係を意識していたことを示している。ちなみに、誠仁親王は変後の混乱により譲位が延期されているうちに病没し、その子の和仁親王が即位して後陽成天皇となった。誠仁親王は「黒幕」どころか、むしろ本能寺の変の「被害者」であった。
・信忠主従は村井貞勝の言に従って二条御所に移動すると、今後の対策を協議した。他日を期すために安土に後退するよう進言する者もいたが、光秀に抜かりのあるはずがなく、安土への脱出は不可能であるから、雑兵の手にかかって果てるよりは、二条御所で切腹しようと信忠は決断した。当時の明智勢の戦力は約1万3千人、このうち本能寺と妙覚寺の襲撃に当たったのは、各3千程度である。その他の書体は光秀が直率して、京都市街を封鎖する作戦に従事していたものと考えられる。信忠は、二条御所の矢倉に物見を昇らせるなどして敵の配置を偵察した結果、明智方の囲みを突破できる可能性が低いと判断したのだろう。
・本能寺での戦闘はわずかな時間で決着がついたので、明智方の兵士の多くは、標的が信長であることに気がつかなかった。しかし二条御所では、相手が信忠をはじめとする織田政権のお歴々であることを知り、将兵が怯んでしまった。そこで、幹部が先頭に立って戦わざるを得なくなり、犠牲が続出したものと考えられる。
・光秀が近江に進撃した理由が3点ほど挙げられる。その第一は、近江の有力武将がいずれも遠行していたことだ。長浜城の羽柴秀吉は中国方面に出征し、佐和山城の丹羽長秀や大溝城の津田信澄は摂津に出向いていた。城主が不在で留守を預かる将兵もわずかとあれば、「どうぞ城をお取り下さい」と言っているようなものだった。理由の第二は、柴田勝家に対する備えである。この時点では、羽柴秀吉が備中から反転するなど完全に想定外である。光秀が最大の敵と見なしていたのは、北陸方面軍を率いる筆頭家老の柴田勝家だった。そこで、先手を打って近江の城塞群を占拠して防衛体制を固め、南下してくる北陸方面軍を迎撃する計画であった。ちなみに、その翌年の賤ヶ岳の合戦では、羽柴軍と柴田軍が近江北部で持久戦を繰り広げたが、光秀もこれと同様の展開を念頭に置いていたのだろう。理由の第三は、近江という土地の経済力だった。当時の近江や約80万石という日本最大の穀倉地帯であり、商工業の先進地域でもあった。この豊穣の地を掌握すれば、新たに2万人の兵力と潤沢な財源を獲得することができる。
・家康が尾張に兵を進めたのは14日だった。出陣までに少し日数がかかったが、東海地方に長雨が降り続き、部隊の集結に手間取ったことが原因である。徳川方の作戦構想は、織田家の残党を保護する名目で濃尾方面に進駐し、あわよくば併呑を狙うという火事場泥棒的なものだった。家康は美濃の土豪たちに書状を送って協力を依頼し、16日には戦法の酒井忠次が木曽川水上交通の要地である津島にまで進出した。そこに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取った旨の報せが届いた。家康はしばらく尾張に留まったが、19日に秀吉からの使者が到着し、「かくなる上は、どうかご帰陣いただきたい」と念を押した。秀吉は家康の心底をすっかり見抜いていたのだろう。やむなく家康は21日に三河に撤収したが、この混乱を利用して領国を拡大するという野心を捨てたわけではなかった。
・徳川方の記録では、穴山梅雪は家康主従と別れて行動したため、落ち武者狩りの土民に襲撃されて落命したとしている。しかし、地元土豪に顔が利く長谷川秀一の案内に従ったほうが安全なこと、梅雪の手勢はわずか12名にすぎなかったこと、穴山領に戻るには徳川領を通過するほうが早いことなどを考えると、別行動を取ったというのは不自然でならない。しかも地元の伝承によると、梅雪が襲撃された場所は、家康一行が通過した草内の渡し付近である。この件については筆者は次のように推察している。梅雪は家康に同行して、隊列の最後尾を進んでいた。まだ護衛の地侍は到着していなかったが、徳川勢と穴山勢を合わせると50人近い人数なので、土民たちも手を出さなかった。しかし草内の渡しで徳川勢が対岸に渡河した段階で、こちら岸に残留していた梅雪が襲撃を受けた。家康としては、いまさら舟で戻っても救出は難しい上に、武田家の名跡を継いだ梅雪があ今後どのように動くか気がかりだったので、そのまま見捨ててしまった。ただし、それではあまり外聞が悪いので、「別行動を取った梅雪の自業自得」とのストーリーを作り上げたというわけだ。その傍証となるのが6月6日に家康が家臣の岡部正綱を穴山家に差し向けたことである。梅雪の嫡男勝千代は11歳と若年なので、当主を失った穴山家が混乱するのを防ぐためだった。つまり家康は、6日の時点で梅雪が横死した事実を確認していたことになる。もしも梅雪が別行動を取っていたとしたら、様々な虚説が乱れ飛ぶ中で、これほど迅速に消息を確認できただろうか。梅雪が土民の手にかかるところを家康一行が目撃したと考えるのが自然である。
・京都での異変が小田原に伝わったのは6月11日のことだった。関東制覇を目指す北条氏は、滝川一益が上野を領国とした上に、関東管領の地位を就任したことに内心穏やかではなかった。そのため、織田政権の機能停止を確認すると、さっそく5万もの兵を従えて上野に侵攻した。滝川一益は18日には敵先遣部隊を撃破することに成功したが、翌19日に北条方の主力と対戦した際には、あまりの戦力差に最後は押し潰されてしまった。伊勢長島に帰還したのは7月1日であり、清洲会議は前月の27日に終了していた。一益は織田家の新体制に関する協議に加われなかったばかりか、任地から逃げ帰ってきた責任を問われて宿老の座を追われ、所領もわずかに長島5万石を認められただけであった。
・徳川・北条両家の和約は、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領と定めるものだった。ここまでの譲歩を引き出せたのは、北条家の基本戦略が関東の制覇であって、甲斐・信濃に対する執着が少なかったためだろう。さらに家康は、次女督姫を氏直の妻とすることで、北条家との同盟関係を再構築することにも成功した。かくして徳川家は所領を5ヶ国約130万石に膨張させ、秀吉を相手に小牧・長久手の陣を戦うだけの勢力基盤を築き上げたのである。
・筒井順慶の意図は密かに明智方にも伝えられたようだ。光秀は筒井勢に対する押さえの部隊を配置せずに、決戦場である山崎に戦力を集中している。これは、順慶が郡山城から出撃しないことを知っていたためだろう。山崎合戦の後、筒井家は秀吉の配下に入った。しかし、天正12年に順慶が死去すると、その翌年に筒井家は伊賀へと転封された。新領の石高は20万石と大和の半分程度にすぎなかった。筒井家に対する一種の懲罰処分と見て間違いない。秀吉は、山崎合戦における順慶の対応を内心では苦々しく思っていたのである。
・「川角太閤記」には、光秀が毛利家に派遣した使者が、夜陰に道を誤って羽柴方の陣所に迷い込んで捕らえられたので、秀吉が光秀の密書を手に入れたと記されている。光秀が差し向けた使者であれば、本能寺を襲撃する前に出発したと考えられるので、他の情報源よりも早く3日夜に到着したことは納得できる。ただし、使者が羽柴方に迷い込んだというのは、秀吉が希代の幸運児であることを認めるにしても、あまりにも都合が良すぎる。また、光秀がそれほど迂闊な人物を使者に指名したとも考えにくい。筆者は、問題の使者は毛利家ではなく秀吉に対して派遣され、その目的は、自分の味方につくよう秀吉を説得することだったと推察している。光秀は、機密保持のために毛利家とはそれまで何の連絡も取っていなかった。したがって、信長を打倒したからといって毛利家が手を結んでくれる保証はなく、光秀の前に大敵として浮上する可能性すら存在した。その一方で、光秀と秀吉の間柄は決して悪いものではなかった。主流派の美濃・尾張衆から圧迫を受けていた二人は互いに協力し合う必要があり、その積み重ねによって相当な信頼関係が醸成されていたはずである。このような経緯に加えて、秀吉が誘いに応じると計算できるだけの状況も揃っていた。
・そもそも秀吉と毛利家は、数年にわたって激しい戦いを繰り広げてきた仇敵同士である。まさか秀吉が短時間に毛利家との講和を成立させ、軍団を無傷で反転させて向かって来るとは、光秀は予想もしていなかったはずだ。その意味では、秀吉という外交の天才の力量を見誤ったことが、光秀の大きな失敗であった。
<目次>
序章 光秀の人物像
光秀は小心者か
光秀は保守的だったか
光秀は神経質か
光秀の実像
第1章 武田攻め
勝頼の外交的失策
武田一門の裏切り
信長の後継者
徳川家康の処世
嵐の前
第2章 謀反の動機
根拠のない怨恨説
長宗我部問題
謀略説の虚構
偶然の悪戯
第3章 本能寺の変
ときは今
本能寺の襲撃
信長に殉じた者たち
救い出された名物
二条御所の戦い
織田勝長と織田長益
第4章 近江の情勢
近江への進撃
瀬田橋の抵抗
放棄された安土城
去る者と残る者
近江の占領
第5章 大阪方面の情勢
寄せ集めの四国方面軍
謀反人の子
伊賀越え
穴山梅雪の横死
第6章 旧武田領の情勢
運の無かった「もう一人の秀吉」
河尻秀隆の無念
鬼武蔵
若神子の対陣
裏切りの報酬
第7章 中部・北陸の情勢
占拠された岐阜城
安藤守就の玉砕
北陸方面軍の動向
伊勢・伊賀の動向
第8章 細川藤孝と筒井順慶
藤孝の処世術
光秀の書状
ローリスク・ローリターン戦略
光秀の反転
光秀の恩義
洞ヶ峠
第9章 中国大返し
高松城
安国寺恵瓊の詐術
秀吉と光秀の関係
小早川隆景の英断
名人と呼ばれた男
中川清秀と高山右近
信孝の合流
第10章 山崎の合戦
両将の事情
光秀の作戦計画
明智勢の奮戦
小栗栖
明智一族の滅亡
明智方武将に対する処分
終章 本能寺の変の総括
あとがき
面白かった本まとめ(2008年)
<今日の独り言>
定額給付金を申し込みました。楽しみです。5歳の息子は、ヤッターアンコウなどオモチャを買いたいようです^_^;)私はちょうど12,000円だし、電動歯ブラシでを買おうかな?と思っています・・・。
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この本は、明智光秀が主君である織田信長を討った「本能寺の変」について、その真実に迫った本です。
この本を読むと、「本能寺の変」は怨恨や謀略ではなかったということが分かりましたし、
①信長・信忠親子が無防備の状態で揃って京都に滞在していること(信忠の判断)
②誰からも警戒されずに京都近郊に襲撃部隊を集結させられること(信長の命令)
③柴田勝家などの重臣がいずれも遠方で活動中のためすぐには反撃できないこと
という謀反成功のための3条件が偶然にも満たされたことから、明智光秀がこの千載一遇のチャンスを逃がさず、ハイリスク・ハイリターンに人生を賭けられるベンチャー精神をもった武将だということが分かりました。
また、「本能寺の変」後に明智光秀の使者が毛利家ではなく豊臣秀吉に行った理由、織田信忠が安土城に逃げられず二条御所に籠もった理由、穴山梅雪が堺から帰国時に横死した真実などは、素直に納得しました。真実に近いと思います。
織田信長など戦国時代に興味がある方には、とてもオススメな一冊です!
以下は、この本のポイント等です。
・朝倉家を辞するに当たって、光秀は、新興勢力の織田信長ならば義昭の潜在的価値を理解してくれるはずと計算していただろう。それでも、朝倉家での安定した生活を捨て、浮き草のような浪人の境遇に逆戻りするのは大きな冒険である。つまり光秀は、「ハイリスク・ハイリターン」に人生を賭けられる大胆さ、これを現代風にたとえれば、ベンチャー精神を持ち合わせていたことになる。
・光秀を「保守的」とする見方も根拠がない。実際には、新しい時代を拓く革新性とそれを実現するだけの実行力を兼ね備えた人物だったと考えられる。それを証明するのが光秀が自らの居城として建設した坂本城である。この坂本城の特徴点は次に示すとおりだ。
①琵琶湖畔の平地に城を築き、商工業発展の基盤となる城下町を整備したこと
②領主の権威の象徴として、壮麗な天守を本丸に設置したこと
③家臣団の屋敷を場内に取り込み、防御施設と一体化させたこと
④外堀の脇(鉄砲の射程距離内)に北国街道を通し、さらに場内に船着場を設けることで水陸交通をコントロールして、攻勢時の部隊移動や防御時の交通封鎖を容易にしたこと
①、②は、城の役割を単なる軍事施設から「領国統治のための行政機関」へと昇華させるものである。③、④は、兵力の機動的・集中的運用という織田家の軍事ドクトリンを忠実に反映していた。1576年に築城された織田家の本拠安土城は、この坂本城の拡大発展型である。それどころか、以後に日本で建設された近世城郭の全てが、坂本城の模倣といっても過言ではない。
・光秀は、家臣の抵抗をものとせずに検地を断行した。それだけでも大したものだが、さらに一歩進んでいた。家中の軍法を制定し、検地で判明した知行高に応じて家臣たちに軍役を割り当てたのである。例えば、千石取りの家臣は、騎馬武者5人、旗指物を付けた足軽10人、槍を装備した足軽10人、幟を差した足軽2人、鉄砲足軽5人の計32人を動員するよう規定していた。つまり光秀は、検地という施策を通じて、財政基盤を確立しただけでなく、家中の部隊編成を統一したことになる。この検地システムの有用性に信長も着目し、光秀を「検地の伝道師」として各地に派遣するようになった。やがて検地は織田家中に普及し、後の豊臣政権において全国規模で展開されたのである。
・天正5年2月の片岡城攻めにおけるエピソードは、光秀の個人的な武勇を如実に物語るものだ。陣頭に立って部下を指揮する光秀に、敵方の武者が斬りかけてきて組み打ちとなった。光秀は凄まじい膂力で相手を鞍に押し付け、その首を掻き切ってしまったというのだ。ひ弱な文人どころか、一騎当千の強者であった。
・信長は、佐久間信盛を追放するに伴って、光秀に近畿方面軍司令官の地位を授けた。北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉と並び、家臣団の中では最高位である。所領の近江志賀郡・丹波計34万石に加え、丹後の細川家、大和の筒井家、そして山城衆などを与力に持ち、総戦力は約3万に達した。天正10年の時点でも、光秀に対する信長の信頼に変わりはなかった。同年正月の安土城での参賀において、最初に信長に拝謁する名誉を与えられたのは光秀である。
・フロイスは、光秀の人物像について、「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
・長篠戦の後、信忠は岩村城攻めに取りかかった。織田領内に打ち込まれた武田方の「楔」である岩村城は、日本の3大山城の1つとされる堅城であったが、信忠は城を厳重に包囲し、長期間にわたる兵糧攻めの末に陥落させた。これに喜んだ信長は、信忠に織田家の家督を譲渡するとともに、岐阜城と美濃・尾張両国を与えた。1大名としての織田家の運営は信忠に任せ、信長自身は天下人として総覧する形にしたのである。美濃・尾張両国を領する信忠の兵力は約3万人、それに加えて、実弟の信雄や信孝など織田一門衆もその指揮下に入った。総兵力は実に5万人に達し、どの方面軍をも大きく上回った。
・織田信忠は、嫡男という血統、配下の兵団の戦闘力、赫々たる戦功など、まさに織田帝国の後継者たる条件をすべて満たしていた。その圧倒的な権威の前には、羽柴秀吉などの方面軍司令官でさえもひれ伏すしかなかった。この信忠が控えている限り、たとえ信長の身に何か起きたとしても、織田家の屋台骨が揺らぐことはあり得なかった。
・本能寺の変の背景として、将軍義昭や朝廷などが黒幕となって光秀に謀反をしそうしたとする謀略説も色々と提唱されている。しかし明智光秀という武将は、決して権威に対して従順というわけではなく、また、他者にたやすく誘導される未熟な人物でもないことは、序章で解説したとおりだ。その意味で、謀略説はその前提からして間違っている。義昭黒幕説については、天正元年に光秀が義昭を見捨てて信長方についた経緯から見て、今さら義昭に忠節を尽くそうとしたはずがない。朝廷黒幕説については、そもそも朝廷側に信長を謀殺する理由がない。論者が指摘するように、朝廷との間に若干の懸案が存在したことは事実であるが、決して深刻な対立というわけではなかった。
・本能寺の変が発生した際、誠仁親王が「自分も切腹しなければいけないか」と光秀に質問した事実があるが、これは親王御自身が織田方との深い関係を意識していたことを示している。ちなみに、誠仁親王は変後の混乱により譲位が延期されているうちに病没し、その子の和仁親王が即位して後陽成天皇となった。誠仁親王は「黒幕」どころか、むしろ本能寺の変の「被害者」であった。
・信忠主従は村井貞勝の言に従って二条御所に移動すると、今後の対策を協議した。他日を期すために安土に後退するよう進言する者もいたが、光秀に抜かりのあるはずがなく、安土への脱出は不可能であるから、雑兵の手にかかって果てるよりは、二条御所で切腹しようと信忠は決断した。当時の明智勢の戦力は約1万3千人、このうち本能寺と妙覚寺の襲撃に当たったのは、各3千程度である。その他の書体は光秀が直率して、京都市街を封鎖する作戦に従事していたものと考えられる。信忠は、二条御所の矢倉に物見を昇らせるなどして敵の配置を偵察した結果、明智方の囲みを突破できる可能性が低いと判断したのだろう。
・本能寺での戦闘はわずかな時間で決着がついたので、明智方の兵士の多くは、標的が信長であることに気がつかなかった。しかし二条御所では、相手が信忠をはじめとする織田政権のお歴々であることを知り、将兵が怯んでしまった。そこで、幹部が先頭に立って戦わざるを得なくなり、犠牲が続出したものと考えられる。
・光秀が近江に進撃した理由が3点ほど挙げられる。その第一は、近江の有力武将がいずれも遠行していたことだ。長浜城の羽柴秀吉は中国方面に出征し、佐和山城の丹羽長秀や大溝城の津田信澄は摂津に出向いていた。城主が不在で留守を預かる将兵もわずかとあれば、「どうぞ城をお取り下さい」と言っているようなものだった。理由の第二は、柴田勝家に対する備えである。この時点では、羽柴秀吉が備中から反転するなど完全に想定外である。光秀が最大の敵と見なしていたのは、北陸方面軍を率いる筆頭家老の柴田勝家だった。そこで、先手を打って近江の城塞群を占拠して防衛体制を固め、南下してくる北陸方面軍を迎撃する計画であった。ちなみに、その翌年の賤ヶ岳の合戦では、羽柴軍と柴田軍が近江北部で持久戦を繰り広げたが、光秀もこれと同様の展開を念頭に置いていたのだろう。理由の第三は、近江という土地の経済力だった。当時の近江や約80万石という日本最大の穀倉地帯であり、商工業の先進地域でもあった。この豊穣の地を掌握すれば、新たに2万人の兵力と潤沢な財源を獲得することができる。
・家康が尾張に兵を進めたのは14日だった。出陣までに少し日数がかかったが、東海地方に長雨が降り続き、部隊の集結に手間取ったことが原因である。徳川方の作戦構想は、織田家の残党を保護する名目で濃尾方面に進駐し、あわよくば併呑を狙うという火事場泥棒的なものだった。家康は美濃の土豪たちに書状を送って協力を依頼し、16日には戦法の酒井忠次が木曽川水上交通の要地である津島にまで進出した。そこに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取った旨の報せが届いた。家康はしばらく尾張に留まったが、19日に秀吉からの使者が到着し、「かくなる上は、どうかご帰陣いただきたい」と念を押した。秀吉は家康の心底をすっかり見抜いていたのだろう。やむなく家康は21日に三河に撤収したが、この混乱を利用して領国を拡大するという野心を捨てたわけではなかった。
・徳川方の記録では、穴山梅雪は家康主従と別れて行動したため、落ち武者狩りの土民に襲撃されて落命したとしている。しかし、地元土豪に顔が利く長谷川秀一の案内に従ったほうが安全なこと、梅雪の手勢はわずか12名にすぎなかったこと、穴山領に戻るには徳川領を通過するほうが早いことなどを考えると、別行動を取ったというのは不自然でならない。しかも地元の伝承によると、梅雪が襲撃された場所は、家康一行が通過した草内の渡し付近である。この件については筆者は次のように推察している。梅雪は家康に同行して、隊列の最後尾を進んでいた。まだ護衛の地侍は到着していなかったが、徳川勢と穴山勢を合わせると50人近い人数なので、土民たちも手を出さなかった。しかし草内の渡しで徳川勢が対岸に渡河した段階で、こちら岸に残留していた梅雪が襲撃を受けた。家康としては、いまさら舟で戻っても救出は難しい上に、武田家の名跡を継いだ梅雪があ今後どのように動くか気がかりだったので、そのまま見捨ててしまった。ただし、それではあまり外聞が悪いので、「別行動を取った梅雪の自業自得」とのストーリーを作り上げたというわけだ。その傍証となるのが6月6日に家康が家臣の岡部正綱を穴山家に差し向けたことである。梅雪の嫡男勝千代は11歳と若年なので、当主を失った穴山家が混乱するのを防ぐためだった。つまり家康は、6日の時点で梅雪が横死した事実を確認していたことになる。もしも梅雪が別行動を取っていたとしたら、様々な虚説が乱れ飛ぶ中で、これほど迅速に消息を確認できただろうか。梅雪が土民の手にかかるところを家康一行が目撃したと考えるのが自然である。
・京都での異変が小田原に伝わったのは6月11日のことだった。関東制覇を目指す北条氏は、滝川一益が上野を領国とした上に、関東管領の地位を就任したことに内心穏やかではなかった。そのため、織田政権の機能停止を確認すると、さっそく5万もの兵を従えて上野に侵攻した。滝川一益は18日には敵先遣部隊を撃破することに成功したが、翌19日に北条方の主力と対戦した際には、あまりの戦力差に最後は押し潰されてしまった。伊勢長島に帰還したのは7月1日であり、清洲会議は前月の27日に終了していた。一益は織田家の新体制に関する協議に加われなかったばかりか、任地から逃げ帰ってきた責任を問われて宿老の座を追われ、所領もわずかに長島5万石を認められただけであった。
・徳川・北条両家の和約は、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領と定めるものだった。ここまでの譲歩を引き出せたのは、北条家の基本戦略が関東の制覇であって、甲斐・信濃に対する執着が少なかったためだろう。さらに家康は、次女督姫を氏直の妻とすることで、北条家との同盟関係を再構築することにも成功した。かくして徳川家は所領を5ヶ国約130万石に膨張させ、秀吉を相手に小牧・長久手の陣を戦うだけの勢力基盤を築き上げたのである。
・筒井順慶の意図は密かに明智方にも伝えられたようだ。光秀は筒井勢に対する押さえの部隊を配置せずに、決戦場である山崎に戦力を集中している。これは、順慶が郡山城から出撃しないことを知っていたためだろう。山崎合戦の後、筒井家は秀吉の配下に入った。しかし、天正12年に順慶が死去すると、その翌年に筒井家は伊賀へと転封された。新領の石高は20万石と大和の半分程度にすぎなかった。筒井家に対する一種の懲罰処分と見て間違いない。秀吉は、山崎合戦における順慶の対応を内心では苦々しく思っていたのである。
・「川角太閤記」には、光秀が毛利家に派遣した使者が、夜陰に道を誤って羽柴方の陣所に迷い込んで捕らえられたので、秀吉が光秀の密書を手に入れたと記されている。光秀が差し向けた使者であれば、本能寺を襲撃する前に出発したと考えられるので、他の情報源よりも早く3日夜に到着したことは納得できる。ただし、使者が羽柴方に迷い込んだというのは、秀吉が希代の幸運児であることを認めるにしても、あまりにも都合が良すぎる。また、光秀がそれほど迂闊な人物を使者に指名したとも考えにくい。筆者は、問題の使者は毛利家ではなく秀吉に対して派遣され、その目的は、自分の味方につくよう秀吉を説得することだったと推察している。光秀は、機密保持のために毛利家とはそれまで何の連絡も取っていなかった。したがって、信長を打倒したからといって毛利家が手を結んでくれる保証はなく、光秀の前に大敵として浮上する可能性すら存在した。その一方で、光秀と秀吉の間柄は決して悪いものではなかった。主流派の美濃・尾張衆から圧迫を受けていた二人は互いに協力し合う必要があり、その積み重ねによって相当な信頼関係が醸成されていたはずである。このような経緯に加えて、秀吉が誘いに応じると計算できるだけの状況も揃っていた。
・そもそも秀吉と毛利家は、数年にわたって激しい戦いを繰り広げてきた仇敵同士である。まさか秀吉が短時間に毛利家との講和を成立させ、軍団を無傷で反転させて向かって来るとは、光秀は予想もしていなかったはずだ。その意味では、秀吉という外交の天才の力量を見誤ったことが、光秀の大きな失敗であった。
<目次>
序章 光秀の人物像
光秀は小心者か
光秀は保守的だったか
光秀は神経質か
光秀の実像
第1章 武田攻め
勝頼の外交的失策
武田一門の裏切り
信長の後継者
徳川家康の処世
嵐の前
第2章 謀反の動機
根拠のない怨恨説
長宗我部問題
謀略説の虚構
偶然の悪戯
第3章 本能寺の変
ときは今
本能寺の襲撃
信長に殉じた者たち
救い出された名物
二条御所の戦い
織田勝長と織田長益
第4章 近江の情勢
近江への進撃
瀬田橋の抵抗
放棄された安土城
去る者と残る者
近江の占領
第5章 大阪方面の情勢
寄せ集めの四国方面軍
謀反人の子
伊賀越え
穴山梅雪の横死
第6章 旧武田領の情勢
運の無かった「もう一人の秀吉」
河尻秀隆の無念
鬼武蔵
若神子の対陣
裏切りの報酬
第7章 中部・北陸の情勢
占拠された岐阜城
安藤守就の玉砕
北陸方面軍の動向
伊勢・伊賀の動向
第8章 細川藤孝と筒井順慶
藤孝の処世術
光秀の書状
ローリスク・ローリターン戦略
光秀の反転
光秀の恩義
洞ヶ峠
第9章 中国大返し
高松城
安国寺恵瓊の詐術
秀吉と光秀の関係
小早川隆景の英断
名人と呼ばれた男
中川清秀と高山右近
信孝の合流
第10章 山崎の合戦
両将の事情
光秀の作戦計画
明智勢の奮戦
小栗栖
明智一族の滅亡
明智方武将に対する処分
終章 本能寺の変の総括
あとがき
面白かった本まとめ(2008年)
<今日の独り言>
定額給付金を申し込みました。楽しみです。5歳の息子は、ヤッターアンコウなどオモチャを買いたいようです^_^;)私はちょうど12,000円だし、電動歯ブラシでを買おうかな?と思っています・・・。