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水城(福岡県 太宰府市〜大野城市〜春日市)の散策はとてもオススメ!

2022年04月21日 01時00分00秒 | イベント・外出

以前このブログでは、福岡県の太宰府市〜大野城市〜春日市にある水城(みずき)の西堤のJR水城駅の西側について紹介しましたが、別の日にその西堤の東側や東堤、水城館、水城跡展望所等に行って良かったので紹介したいと思います♪
 
 今回は、まずはそのJR水城駅東側にある「ふるさと水城跡公園」へ行き、その水城跡の説明や地図を確認して、まずは近くの土塁断面広場へ行きました♪

↑水城跡の説明

↑地図

 それにしても、西暦664年に唐・新羅の襲来に備えて造られた全長約1.2kmの防波堤のような土塁の水城が現在でもほぼ残っているというのは素晴らしいです♪

↑土塁断面広場

 土塁断面広場には、その水城の土塁の構造や築造方法などの分かりやすい説明がありましたね♪

↑土塁の構造の説明

 土塁は当時の最新技術で、下から火山の土、川の土、山の土で造られ、高さ約10m、幅も約80mもあるとは素晴らしいです♪

↑土塁の築造方法

 そして具体的な実物大の断面図もありましたね♪
 土塁を体感できるように、陶板(焼き物)を用いて、土層とその手触り感を再現していて、実際に触ることができるとは秀逸でしたね♪

↑断面図

 そして欠堤部の方へ歩いて行きました♪

↑欠堤部方面へ

 途中で階段状の道があり、土塁の上まで行けたのは素晴らしかったですね♪

↑階段

 土塁は今ではすっかり木々に覆われていますが、10mの高さは結構高く、そしてしっかりと土塁が造られているということが分かりましたね♪

↑土塁の頂上の道

↑降りて進む

 そして頂上部分は歩くことはできないようなので降りて、西鉄電車や高速道路が見えるところまで行きました♪

↑西鉄電車方面

 この辺りは開発で残念ながら欠堤部となっている部分です。
 まあ電車や高速道路、国道を通すためで仕方ありませんね。

↑欠堤部

 そしてここにも水城跡の説明があり、説明を読みます♪

↑欠堤部

↑水城跡の説明

 それから高速道路の先の東側部分へ行くために、左に大きく迂回してチャリで行きました♪

↑御笠川と高速道路、大野城方面

 すると水城が見えてきて、水城の第二広場や東門跡の辺りに到着しました♪

↑水城跡 第二広場や高速道路

↑東門跡方面、右側は旧国道3号線(県道112号線)

 東門跡と古代官道の説明がありましたね♪
 ここは博多湾から官道が通っていて、水城の東門を通って太宰府政庁へ向かっていたようです。
 実は西門が先に出来たようで、東門の辺りはこの近くに741年以降に国分寺と国分尼寺が造られた頃から開発が進んだようです。
 国分寺が出来たということは、この辺りは当時は筑前の国の中心地だったようです。
 また、この東門の道は江戸時代には日田街道、明治時代以降は国道3号線(現在の県道112号線)として利用され古代以来、九州の重要な道だったようです。

↑東門跡と古代官道の説明

 そして水城大堤乃碑がありましたね。

↑水城大堤乃碑

↑水城大堤乃碑の説明

 この水城大堤乃碑は大正4年(1915年)に大正天皇即位の記念事業として建てられたとのことでしたね。
 その碑には水城跡の実測結果が刻まれていることから、少なくともその頃からはこの水城は大切にされていたということも分かります。

↑水城大堤乃碑の裏側

 それからこの近くに東門の礎石等もありましたね♪

↑東門跡

↑東門跡の礎石

↑東門跡の礎石

 そして東門の説明があり、大宰府に赴任する官人たちは、この水城の東門で出迎えを受けて太宰府の印と鍵を受け取り、また他へ赴任する際はここから送り出されていたようです。

↑東門跡の説明

 また礎石にどのように門柱が建てられていたかの説明が分かりやすくて良かったですね♪

 そして入場無料の水城館が、さすがこの水城の土塁の下にありました♪

↑水城館

 そして水城館内では5分ほどの水城を分かりやすく説明したビデオも無料で観れ、展示物の説明も十分で、そして説明員の方がさすが詳しく分かりやすく色々と説明してくれ、また質問にも懇切丁寧に答えて頂き素晴らしかったですね♪

 特に大野城や水城、小水城、太宰府などの位置関係や防御体制がよく分かる絵は素晴らしかったです♪
 もし大宰府が攻められた時は、大野城に立て籠もるようになっていて、そのため大野城は山の頂上にあり、そしてかなりの広さがあります。
 この大野城は登ったことがありますが、かなり広かったですね。

↑太宰府周辺の地図

 外濠が広く、これでは攻める方は低いですし、矢が届かず防御に適しているということが分かります。

↑水城復元図のイラスト

↑水城復元図のイラスト

↑下の白いものは水城の模型

 それから東門近くの井戸からは奈良時代の食器のフタが見つかり、水城と書かれていて当時も水城と言われていたようです。
 しかも水の書き順が違うのは筆のせいでしょうか?

↑奈良時代に水城と書かれたフタ

 それから、この水城は続日本百名城に平成29年に選ばれているんですね♪

↑水城は続日本百名城

 この水城館では説明員が笑顔で優しく水城関連について説明や、質問に対する回答をして頂けてとても良かったですね♪
素晴らしかったです♪
以下の話を伺いました♪

・高速道路建設の際は、この水城より上に造のは、けしからんということとなり、この部分の高速道路は低く造られた

・白村江の戦いは鉄鉱石確保のため百済救済に向かったようだ

・ただ唐はその後、内乱もあったため、日本を攻めて来ることはなかった

・博多湾の鴻臚館から外交使節は西門を通り太宰府政庁へ向かったが、その場合は太宰府政庁のある街の南から北を通ることから大きな街と見せることができたため(東門からだとすぐ太宰府政庁に到着してしまい街の全体が分からないため。日本の街は大きく進歩しているということを見せたかったようです)

・東門は主に役人が通っていた

・水城は博多湾まで20km以上で元寇のモンゴル軍が攻めて来たかは疑問で、両方の説があるとのこと

・弓矢の攻撃は土塁が高いので防御が有利。攻撃側は博多湾側からは弓矢が届かず、防御側は土塁が高いので弓矢が届き有利。深さ4mの濠があるので博多湾側の攻撃側は濠の中を歩いては進めない。

 それから水城周辺の案内図もあり、説明員の方が丁寧に説明してくれました。

↑水城周辺地図

 近くの国分寺跡には今度水城を訪れた時には行ってみたいと思いましたね♪
 なお、ご参考までに、以前このブログではこの水城近辺の西鉄都府楼前駅〜大宰府政庁跡〜坂本神社〜岩屋山(岩屋城跡)~四王寺山(大野城跡)~水瓶山登山〜太宰府天満宮前までの登山について紹介しております♪

 また、この地図の右上にある宝満山登山についてもこのブログで紹介しております♪

 それからこの水城館の近くに展望台があったので登ってみました♪

↑展望台

 その展望台からは水城や高速道路方面が綺麗に見えましたね♪
 当時は壮大な水城で、濠も広かったと想像できます♪

↑水城

 また反対側も大野城方面へ水城が続いていたようです♪

↑反対側

 水城は、唐・新羅の来襲に備えて664年に造られた約1.2km✕高さ約10mの直線状の土塁で、それを今でも実際に見ることができ、また土塁断面広場や東門跡、水城館などの説明も十分で素晴らしくとてもオススメです!  


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