某氏から、最近岩波書店から刊行された『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』についてどう考えるか問い合わせがあった。
まずボクは、この本を読むつもりはまったくない、と答えた。というのも、野枝について著者が書いた「豚小屋に火を放て 伊藤野枝の矛盾恋愛論」を読んでいたからだ。この文は、『現代思想』2013年9月号に掲載されていた。全文11頁なのに、野枝に言及したのは3頁程度、あとは自らの「恋愛(?)」体験、一人の女性との交際の顛末を長々と書き綴ったものだ。こんな個人的なことを読まされる側はたまったものではない。野枝について書かれたと思い読んでいくと、なかなか野枝が出てこないで、ひたすら著者のまったく個人的な体験を読まされるのである。アホらしい、というしかない。
きっと、岩波本にも、この文が載せられているのだろうと思うと、読もうという気持ちなどまったく湧いてこない。
今月号の『世界』の最後の頁に、「オレ、伊藤野枝」という文がある。この著者が「伊藤野枝」だと勝手に思い込むのは自由ではあるが、野枝はどう思うだろうか。
ボクは、この「オレ、伊藤野枝」を読んで、著者は品性が欠けていると思わざるを得なかった。野枝はやりたいことがあったら何でもやってしまう・・・すると「あんなこともできる、こんなこともできる、もっとできる、わたしはすごい」ー「野枝が身をもっておしえてくれているのは、そういうことだ」と記している。しかし野枝は、著者がそう思い込むような人間ではない。
著者は、きわめて主観的に、勝手に野枝像をつくりあげて、さらにその自分勝手につくりあげた野枝像に自己を投影し没入する。そこでは、実在した伊藤野枝という客観的な存在は、完全に消されてしまう。
さらに「オレ、伊藤野枝」と書く著者は、女性なのか。もちろん男性である。女性としての野枝が、近代日本社会のあり方に怒りや疑問を投げかけたのである。「オレ、伊藤野枝」と書く著者は、野枝を理解しているとはとうてい思えない。
それにこの本の表題が許せない。伊藤野枝という人間と「村に火をつけ、白痴になれ」という品性に欠けることばとがどう結びつくというのか。
ボクには、怒りしかない。
最後に『現代思想』に書かれた著者の文の末尾を記しておく。
「豚小屋に火を放て。燃やしつくしたそのはてに、とてつもなくおおきな力がやってくる。不満足な人間であるよりも満足な豚になったほうがいい。合コンにいきたい。」
まずボクは、この本を読むつもりはまったくない、と答えた。というのも、野枝について著者が書いた「豚小屋に火を放て 伊藤野枝の矛盾恋愛論」を読んでいたからだ。この文は、『現代思想』2013年9月号に掲載されていた。全文11頁なのに、野枝に言及したのは3頁程度、あとは自らの「恋愛(?)」体験、一人の女性との交際の顛末を長々と書き綴ったものだ。こんな個人的なことを読まされる側はたまったものではない。野枝について書かれたと思い読んでいくと、なかなか野枝が出てこないで、ひたすら著者のまったく個人的な体験を読まされるのである。アホらしい、というしかない。
きっと、岩波本にも、この文が載せられているのだろうと思うと、読もうという気持ちなどまったく湧いてこない。
今月号の『世界』の最後の頁に、「オレ、伊藤野枝」という文がある。この著者が「伊藤野枝」だと勝手に思い込むのは自由ではあるが、野枝はどう思うだろうか。
ボクは、この「オレ、伊藤野枝」を読んで、著者は品性が欠けていると思わざるを得なかった。野枝はやりたいことがあったら何でもやってしまう・・・すると「あんなこともできる、こんなこともできる、もっとできる、わたしはすごい」ー「野枝が身をもっておしえてくれているのは、そういうことだ」と記している。しかし野枝は、著者がそう思い込むような人間ではない。
著者は、きわめて主観的に、勝手に野枝像をつくりあげて、さらにその自分勝手につくりあげた野枝像に自己を投影し没入する。そこでは、実在した伊藤野枝という客観的な存在は、完全に消されてしまう。
さらに「オレ、伊藤野枝」と書く著者は、女性なのか。もちろん男性である。女性としての野枝が、近代日本社会のあり方に怒りや疑問を投げかけたのである。「オレ、伊藤野枝」と書く著者は、野枝を理解しているとはとうてい思えない。
それにこの本の表題が許せない。伊藤野枝という人間と「村に火をつけ、白痴になれ」という品性に欠けることばとがどう結びつくというのか。
ボクには、怒りしかない。
最後に『現代思想』に書かれた著者の文の末尾を記しておく。
「豚小屋に火を放て。燃やしつくしたそのはてに、とてつもなくおおきな力がやってくる。不満足な人間であるよりも満足な豚になったほうがいい。合コンにいきたい。」