浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

夕顔の種を蒔く

2016-04-26 22:10:21 | その他
 夕顔の種を蒔く時期となりました。堅い種です。傷をつけないと芽が出ません。種はよくみると、三角のような形となっています。その頭の突先部分を、園芸用はさみで少し切りとってください。おそらく昨年咲いた夕顔の種はたくさんあるでしょうから、いろいろに傷をつけて7・5㎝くらいのビニールポットに蒔きましょう。

 実を言うと、ボクは4月中旬に種まきをしました。やっと、2つ芽が出てきました。ボクは、多方面から夕顔の苗を求められているので、すでに20くらいポットが並んでいます。

 水やりを忘れないでください。水は多めのほうがよいと思います。

 今年の夏から秋(初冬)にかけて、夜の「夕顔」を楽しみましょう。
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【映画】消えた声が、その名を呼ぶ

2016-04-26 20:46:19 | その他
 久しぶりに映画を見た。「消えた声が、その名を呼ぶ」。

 オスマントルコによるアルメニア人虐殺。その数は150万人とも言われる。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/24/armenian-genocide-controversy_n_7140572.html

 その虐殺の中、生き残った鍛冶職人ナザレット。

 ナザレットは、家族とともに平穏な日々を送っていた。ある夜、ナザレットは兄弟たちとトルコ軍に拉致される。そしてナザレットを除く兄弟らは過酷な労働を強いられ、そして殺される。

 ナザレットの妻子もどこかへ連れ去られる。生き残ったナザレットは、娘を探してレバノン、キューバ、そしてアメリカへと旅をする。最後には娘の一人と会うことができるのだが、大勢いた家族は、この二人だけになってしまう。

 アルメニア人の宗教は、東方正教会系のキリスト教だ。オスマントルコ帝国は、イスラムである。共存していたのに、第一次大戦下、オスマントルコ領内にいたアルメニア人は虐殺され、追放されていった。

 ボクたちは、宗教を原因とした殺し合いはしない。しかし、異なった民族、異なった宗教が複雑に絡み合っているところでは、宗教の別を原因とした無残な虐殺や迫害が繰り返されてきている。

 この映画のストーリーはフィクションであるが、しかしその背景は歴史的事実として存在している。宗教が異なることを原因とするこうした迫害や虐殺を見せられると、宗教の恐ろしい「力」を感じてしまう。

 アルメニアという国が現在あるが、アルメニア人は世界各地に居住している。それだけ迫害されたと言うことだ。

http://www.bitters.co.jp/kietakoe/
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ハンセン病患者に対する裁判

2016-04-26 07:47:06 | その他
 ハンセン病患者、あるいはその後遺症をもった人々の裁判が、療養所の中で、傍聴人もほとんどないままにお今割れていた。それも日本国憲法下である。

 裁判所がこれに対してどう対応するのかが注目されていたが、「謝罪」はしたけれども、憲法違反とせず、またそれぞれの事案に関する具体的な検証もしなかった。もと患者に対する人権侵害は、これでは未決である。

 下記は、共同配信記事。


ハンセン病隔離法廷「違憲疑い」 最高裁言及、元患者らに謝罪 2016年04月25日

 ハンセン病患者の裁判が隔離先の療養所などに設置された「特別法廷」で開かれていた問題で最高裁は25日、必要性を審査せず形式的に設置を許可したのは裁判所法違反だったとする調査報告書を公表した。記者会見した今崎幸彦事務総長は、差別的な取り扱いを認め「患者の人格と尊厳を傷つけ、深く反省しおわびする」と謝罪。報告書には明記しなかったが「法の下の平等を保障した憲法に違反していたと強く疑われる」と違憲の疑いに言及した。

 最高裁の謝罪表明は極めて異例。隔離政策の違憲性を認めた01年の熊本地裁判決から15年。政府と国会は判決直後に謝罪しており、司法もようやく過ちを認めた。(共同)


 しかし、おそらくこれではハンセン病関係者は納得しないだろうと思った。今日の「東京新聞」はその点について詳しく報じていた。


謝罪、何を今さら ハンセン病元患者が苦難語り継ぐ 

2016/4/26 朝刊

 人生も、仲間もかえってこない-。ハンセン病患者の特別法廷が違法だったとして二十五日、最高裁が謝罪した。だが、岡山県瀬戸内市の国立療養所「長島愛生園」で暮らす元患者の神谷文義さん(87)=愛知県半田市出身=は「遅すぎる。納得できない」と怒りをあらわにした。国策で隔離され、差別にさらされ続けた人生。「謝罪って、何を今さら…。偏見にまみれた国や司法が、大切なものを奪ったんや」

 療養所のある島に、古びた桟橋の遺構が残る。収容される患者が最初に降り立つ場所だった。神谷さんは十九歳で入所した日のことを「自殺する場所だと思って歩を進めた。こんな人生、いつ死んでもいいって」と振り返る。

 その数年前、やけどをしたが痛みを感じないことがあった。特に気に留めなかったが、二年後に勤務先の工場で火に気付かず大やけどを負い、治りも遅かったことから通院して、ハンセン病と診断された。「父親がショックを受けてね。一人息子が『らい』だなんて」

 警察に「外に出歩くな」と忠告された。近所の子どもが家に石を投げ、家族が住民から避けられるようになった。神谷さん自身も、ハンセン病は「身体が溶ける重い病気で患者に近づくと、うつる」と思い込んでいた。周囲の「早く出ていってくれ」という気持ちを察し、故郷を後にして療養所へ向かった。

 療養所ではクレゾール入りの消毒風呂に入れられ、園長に逆らうと監房に収容された。病気と差別に苦しみ、崖から身を投げた仲間も多い。神谷さんは療養所で知り合った和子さん(81)と結婚したが、断種を強いられた。「何の罪も犯していないのに、なんで子どもまで絶たれな、いかんかったんや」

 遅すぎたとはいえ、最高裁の謝罪自体は、神谷さんは「療養所の納骨堂に眠る仲間たちに伝えたい」と受け止める。だが最高裁は謝罪会見で、裁判の公開原則には違反せず違憲ではないと説明した。神谷さんは特別法廷を傍聴したことも、事前に開廷が知らされていた記憶もなく、後から「開かれたらしい」と聞く程度だった。「門の告示の張り紙なんて見たことがないし、そもそも差別対象の患者施設に一般の人は来ない。それで『公開』だなんて…。今も偏見と差別が司法に残っていることの表れ。意を尽くした謝罪ではない」と憤る。

 入所から七十年近くたった今も、親族への差別を恐れて仮名の「文義」を使い続ける。語り部として、療養所を訪れる中高生らに差別と偏見の歴史を教えている。「苦しみながら逝った仲間の名誉を回復するためにも、残された者として真実を伝え続ける」

(社会部・天田優里)

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