浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

自民党議員の暴言、また

2016-04-12 22:42:37 | その他
 「「進学しても女の子はキャバクラへ」自民・赤枝氏発言」という記事だ。

http://www.asahi.com/articles/ASJ4D6DSWJ4DUTFL00T.html?ref=rss
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福沢諭吉を読む(1)

2016-04-12 22:21:04 | その他
 今年諭吉について話さなければならない。しかし本当をいうと、諭吉についてはあまり勉強したことはなかった。だから今必死に読んでいる。残念ながら全集を持っていないので、「選集」を購入し、また諭吉についての本をそろえて読んでいる。

 そのなかで、丸山真男の『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)を読んでいるが、諭吉は国家の独立、他国(他民族)による支配を排するために、思想的な面で大いに奮闘した人だ。

 そこで引用されているのが、「内は忍ぶ可し外は忍ぶ可らず」(全集19)のこの部分だ。

 試に我開港場等に在留する外人を見るに、百人に九十九人は有徳の君子と思はれず、(中略)喰ひにげ、人力車に乗て賃銭を払はず、普請をして大工をたをし、約条の前金を取て品物を渡さず、(中略)啻に銭を貪るのみならず、法令を犯し風俗を破ることも亦甚し。人家近き処にて鉄砲を放ち、往来留の道を妄に通行し、(中略)甚しきは雇の日本小使までも主人の威を仮りて人を軽蔑し、動もすれば国の制度に外づるゝことあり

 この「外人」を「米軍人」にすれば、沖縄の状況そのままである。この状況は、日米行政協定によれば日本全国が沖縄と同じような状況になる可能性があるのだが、開港場の状況に怒りを持ち、真の独立を求めた諭吉は、現在の日本の姿をどう見るであろうか。
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マスコミがTPPを批判しないわけ

2016-04-12 17:26:34 | その他
 なるほどね、日刊ゲンダイの記事を読んで納得した。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/179267

 ネタを得るためには、対象者の懐深く潜入すること、そうすると「うい奴じゃなあ」といってかわいがってもらえる。するとたいしたことのないネタをそっと教えてくれるのだ。

 政治を批判的に見るなんて、今の記者には無理だ。なんといっても精神的な自立、独立精神がないのだから。また学ぼうとしないから、本質なんか見えやしない。

 メディアには希望を持たないほうが良さそうだ。
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「学問的」であるということ

2016-04-12 07:07:00 | その他
 昨日から「報道ステーション」が再開されたが、ボクは見ないことにした。だいたいその後に、あの橋下徹が出演する番組がセットされたということは、テレビ朝日が安倍へ追従し、その判断の下に行動したことを如実に示しているからだ。メディアとしての自殺行為であり、ジャーナリズムの放棄でもある。

 「リテラ」に内田樹氏の安倍と橋下のあり方についての言及が紹介されていた。

http://lite-ra.com/2016/04/post-2151.html

 安倍とか橋下とか、そういう人物が存在することはやむを得ないことだが、しかし市民がそれに乗せられてしまう、彼らを支持してしまうということをどう考えたらよいのか。

 最近福沢諭吉を読んでいるが、一人一人が「独立精神」をもつことが、今もってできていないこと、しかしすべての人間がそうなるということはきわめて難しいことであるから、できるだけ多くの人がそうした精神を持つべきであるのだが、逆に現在はとても少なくなっていること、ここにあるのではないか。

 福沢は前近代の儒教などの「惑溺」から脱して独立自尊の人間になることを求めたのであるが、その際重要なことは「学問のすすめ」、つまり「惑溺」から脱するためには「学問」が必要だというのだ。

 その「学問」とは、実践的な学問ではなく、さらにいえば、生活に従属した学問ではなく、それから相対的に独立した、生活(自然や社会)を客観的対象として認識できるものであること、そういう学問を提唱した。

 福沢は、「生活に従属した学問」とは、前近代の哲学であり、また「東洋的学問」としたのであるが、人が自然や社会に包摂されてしまうことを是とするものではいけない、と主張した。

 今、ベストセラー本というと、ハウツーもの、現在の秩序のなかをどううまく生きていったらよいかという内容の本が売れているようだ。それは学問ではない(「東洋的学問」ではある)。社会や自然、政治、あるいは既成の秩序を客観的認識対象としてみることを可能にする本を学ぶことによって、独立自尊がはかられるのである。

 人は学校に入り学問をする。しかし学校在学中、学問をせずに運動ばかりやり(それは権力者の支配の手段であった)、卒業してからは学問から全く離れ、せいぜい本を読むというときにはハウツー本程度。そういう状況では、客観的認識は得られない。

 そういう人が、安倍や橋下の嘘やくるくる変わる言説に「惑溺」されていくのである。

 「学問のすすめ」は、独立精神をもつためには、いまもって有効なことばである。
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