『京都新聞』のコラム。
原発と「罪」の意識
アインシュタインは晩年、「生まれ変わったら、科学者ではなく、鉛管工になりたい」と言っている。広島への原爆投下を知ると、うめいたあと絶句したという
▼ナチスドイツによる核兵器研究を恐れ、米大統領に原爆開発を進言したことを悔いていた。この有名なエピソードを引いて、科学者たちの罪の意識を問うたのは、評論家の唐木順三である
▼<物理学者が己が社会的、時代的責任を表白する場合、単に善悪の客観的判断ばかりでなく、自己責任の問題、「罪」の問題にまで触れるべきである>(「科学者の社会的責任」についての覚え書)。長年の考えを書き始めたのは、亡くなる前年である
▼東京電力柏崎刈羽原発が審査「合格」と聞いても、すっきりしない。唐木の問いが引っかかっている。福島第1原発事故を起こした「罪」の意識が、どこにも感じられない
▼当事者の東電は、原発を動かすのが責任と原子力規制委員会で発言し、規制委は結局のところ東電に「適格」のお墨付きを与えた。これでは「福島は原点」と繰り返しても、原発事故で生活を奪われた人々には届くまい
▼科学技術上の適否以前に大切なことがある。過ちと罪に向き合う。唐木は<そこから新しい視野が開かれるのではないか>と書いた。ここで未完となったのが残念だ。
「罪」の意識。
原発で言うなら、東電など電力会社だけではなく、政治や行政に携わる人々も、その意識をもつべきなのだが、まったくそういう意識をもたない。
「罪」の意識をもつ人は、支配層にはいない。支配層は、そういう意識を持たないが故に、どんな悪事でもやってのける。「罪」の意識というのは、倫理のレベルの問題であるが、倫理は上方から下方に向かってなかば恣意的に語られる。どんな悪事でもやってのける者こそが、倫理を語る。
「罪」の意識を持つ者は、それを意識するとき寡黙である。「罪」の意識は、良心の問題ともつながり、自分自身を問うからだ。
支配層の中に、いかに「罪」の意識がないかは、安倍昭恵という人物をみればわかる。もちろんその亭主も、である。