浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

川根の山々

2017-10-30 22:37:11 | その他
 昨日は、午後から川根に行き、一晩泊まってきた。夜は、大雨であったが・・

 川根本町には、茶茗館がある。雨に濡れた庭を窓越しに見ながら、お茶の飲み方を教えてもらう。茶茗館をでると、雨が降り続く彼方にどっしりとした連なった山が眼に入る。

 いつだったか、現在の川根本町に泊まり、朝宿舎からでたとき、そこでもどっしりとした不動の山の姿を見据えたことがある。

 「動かざること山の如し」ということばもある。社会や歴史がどのように動こうとも、動かずにどっしりと構えていること。

 川根の山の中に入ると、そうした落ち着きが心の中に生じる。

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みぎわ

2017-10-30 21:28:42 | その他
 『みぎわ』57号が送られてきた。浜松聖書集会の方々が、毎年編んでいる雑誌である。私にこの雑誌が届けられるのは、ひとえに溝口正先生との出会いがあったからである。

 この『みぎわ』に奥様の春江さまがお書きになっている「浜松市政教分離違憲訴訟」が、溝口先生と私とを結びつけた。

 30年以上前のこと、現在私が関わっている研究会の浜松例会の講師として、溝口先生にお願いしたことがあった。先生は私共の依頼をすぐにひきうけていただき、ある日の土曜日、政教分離訴訟について話しいただいた。その後、先生から「2・11思想と信教の自由を守る県西部集会」を手伝って欲しいといわれ、それから先生が亡くなるまで、ずっと先生の傍らにいた。

 私から先生に何ごとかをお願いしたことはたった一度、研究会の講師をお願いしたことだけだと思う。先生からはその後、いろいろなことを頼まれた。私は、その要請を一度たりともお断りしたことはない。これは以前にも書いたことだが、先生の要請は「正義」の要請であったからだ。もちろん、その要請は、先生の高潔な人格からも、断れないというものであった。先生の傍らで、私は具体的にこれとはいえないが、いろいろなことを教えられたと思う。政治的社会的な考え方はほぼ同じであったから、先生の人格そのものから教えられたという気がする。

 しかし先生は10年前に昇天された。もう10年かとも思う。私は空を見つめることがよくあるが、空を見上げながら先生のことを思う時がある。先生は、このような時代状況を憂えて、私にもっと頑張らなければいけないよと言われているのではないかと思う。

 この『みぎわ』には、先生没後10年に関わる文が載せられている。先生の影響を受け、あるいは薫陶を受けた人々が、私をふくめてたくさんいるのだということを、今一度教えてくれる。

 私はキリスト者ではない。そうでない私にとっても、溝口先生は偉大な存在であったし、今もそうであり続けている。

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黙秘権

2017-10-30 16:51:34 | その他
 『法と民主主義』10月号を読む。特集は、「新段階の「日米安保」」であるが、それよりもへ~ッと驚いた記述があった。

 前田朗「取調拒否権行使で不起訴処分勝ち取る」である。徹底的な取調拒否権を行使して強盗殺人被疑事件に関して、房安努さんが不起訴処分となったのだ。

 房安さんは、「密室の中の取調べが冤罪を生むのだといういうことを実感しました。黙秘するには房から出ないことが大切であることがわかりました」と述べている。

 前田朗氏はこう書いている。

 房安さんは闘いを通じて黙秘権の本質をつかみとった。黙秘するということは捜査官に情報提供しないことである。一切情報提供しないのだから、そもそも取調室に行く理由がない。黙秘権行使とは取調べを受けないこと、取調べを中断させること、そもそも取調室に行かないことである。権力の言いなりになって取調室に行ってはいけない。これが黙秘権である。

 なるほど、である。今まで、逮捕されたらどうなるかについて話したことがあるが、ここまで徹底しての黙秘権行使については話してこなかった。

 刑事弁護人は、身柄拘束された被疑者を孤立無援の状態で取調室に行かせてはいけない。被疑者を一人で取調室に行かせる弁護士は、警察による虚偽自白強要の「共犯」と言って過言ではない。取調べへの弁護人立ち会いを求めるか、それが実現しなければ取調拒否権を行為させるべきである。

 これが前田氏の末尾の文である。
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NHK

2017-10-30 16:17:21 | その他
今日読書していたら、訪問者を知らせるインターホンが。出てみたらNHKであった。私はテレビを見ない。テレビは、人間をダメにするという思いを持ってきた。だから見ないし、わが家には受信できないテレビしかない。Amazonビデオをつないで、映画を見たり、DVDをみることはあるが、テレビは見ない。

 テレビがない生活をほとんどの家庭では考えられないかもしれないが、テレビがないと静かな時間が経っていく。今も、リチャード・クレイダーマンのピアノを聴きながら、これを書いている。

 NHKは、失礼にも、わが家のテレビについて問いただす。アンテナはない、だからNHKなど受信できないことを話した。すると、ケータイにワンセグ機能はついているかという。ついていないと答えたら、カーナビはどうかと問う。見られるけれども、止まっているときだけ、しかしわざわざテレビを見るために車に乗ることはないし、運転中は音楽を聴いていると答えた。

 すると、テレビを見られるカーナビなら受信料を払わなければならないという発言がなされた。私はこれにはむかっときた。

 それならば、カーナビをテレビを見られないようにしなさい、私が許可するから、と迫った。すると、テレビをみられないカーナビに変えれば、というようなことを言われた。

 車を買ったらそれがついていたのである。わざわざNHKのために、カーナビを変えるなんてことはあり得ないのに、そういうことを言う。

 テレビのない生活を楽しんでいる者もいることをNHKは認識すべきだ。はっきりいって、うるさい、もう来るな、と言いたい。



 
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