『青鞜』という雑誌が脚光を浴びていたとき、「売春論争」(「廃娼論争」)というものがあった。伊藤野枝が、キリスト教婦人矯風会の廃娼運動を批判したものだ。もちろん野枝は,廃娼そのものに反対したのではない。中流の婦人たちが売春という職に就いている女性たちを「賤業婦」などと呼称したこと、廃娼のためには社会の貧困を問題にしなければならないことなどを指摘したのであるが、未だこの頃は野枝の主張は感情の赴くままに稚拙な論理を組み立てて主張する段階であったので、論理的に主張する青山菊栄に敗退したという論争であった。
青山は、野枝の舌足らずな主張を論理的に批判するのだが、そのなかにこういうものがあった。
野枝はこう主張する。公娼制度のような制度は、そう簡単に壊すことはできない、と。
権力者たちの造った制度のなかなかこわれないのはせいぜい時の問題くらいのものです。時が許しさえすればいつでも破(こわ)せます。そら、そこでもやはりいくら人間がもがいたって時が許さなければ駄目でしょう。
青山菊栄は反論する。
「いかにもがいても時が来なくては駄目だ」と仰せのその「時」は人間の努力次第心懸(こころがけ)次第で早くも遅くも来るものであり、来させる事も来させぬ事もでき得るものだと思います。私は人間自身それを欲するや否やが第一の問題だと思はずにはいられません
こういうやりとりが、いままでも行われてきた。
野枝は、「時」が来ないとよくならない、と主張する、「人間自身が」その「時」を来させようと思えば来るのだ、と青山は主張する。
しかしいずれの主張も、同じようなことを言っているような気がする。人間自身がよい社会の到来を欲しないと、その「時」は来ないのだ。
今の日本、人々は、それを、欲していない、ようなのだ。
青山は、野枝の舌足らずな主張を論理的に批判するのだが、そのなかにこういうものがあった。
野枝はこう主張する。公娼制度のような制度は、そう簡単に壊すことはできない、と。
権力者たちの造った制度のなかなかこわれないのはせいぜい時の問題くらいのものです。時が許しさえすればいつでも破(こわ)せます。そら、そこでもやはりいくら人間がもがいたって時が許さなければ駄目でしょう。
青山菊栄は反論する。
「いかにもがいても時が来なくては駄目だ」と仰せのその「時」は人間の努力次第心懸(こころがけ)次第で早くも遅くも来るものであり、来させる事も来させぬ事もでき得るものだと思います。私は人間自身それを欲するや否やが第一の問題だと思はずにはいられません
こういうやりとりが、いままでも行われてきた。
野枝は、「時」が来ないとよくならない、と主張する、「人間自身が」その「時」を来させようと思えば来るのだ、と青山は主張する。
しかしいずれの主張も、同じようなことを言っているような気がする。人間自身がよい社会の到来を欲しないと、その「時」は来ないのだ。
今の日本、人々は、それを、欲していない、ようなのだ。