『週刊金曜日』10月6日号、ぱらぱらとめくっていたら、山本義隆氏が書いている。何を書いてるかと読んでみたら、ベトナム・ホーチミン市にある「戦争証跡博物館」の展示会「ベトナム反戦運動とその時代」開会セレモニーでの挨拶文であった。
この展示会、1967年10月8日に、おそらく機動隊に殺された山崎博昭さんの死から50年ということで企画されたそうだ。
当時の首相、佐藤栄作の南ベトナム政府訪問を阻止しようと、学生たちが羽田に向かい、弁天橋で機動隊と衝突、そのなかで山崎さんが殺された。
当時私は高校1年生。思春期の彷徨の時期にあった私は、文学作品を読み、音楽を聴き、自分自身のこれからの生をどうするのか思い悩んでいた。夜遅くまで音楽を聴きながら本を読む生活が続いていた。ある時期は、高校に行く意味はあるのかを考え、しばらく登校拒否になったこともあった。そんなとき、二人の同級生がわが家を訪問してくれ、また通い始めたという経験を持っている。
夏を過ぎ、秋になり、よけいに鬱になり、生きる価値はあるのか、などと考え込み、いややはり生きる価値はない、などと行ったり来たりの思考の中に沈潜していた。
そんなときに、この事件が起きた。これはたいへんな衝撃であった。「反戦のために命を賭けられるか」という問いが、私の前に突きつけられたのだ。
山崎さんは、「反戦のためなら命を賭けられる」と語っていたという。おそらく人生の意味を尋ねる彷徨の中で、山崎さんはそうした方向へと思考を鍛えていたのだろう。
山崎さんの死を、私はどう受け止めればよいのか。さらに私の思考は闇の中に入り込んでいったけれども、ベトナム戦争反対の意志だけは膨れあがり、そうした運動に関わるようになった。
山崎さんの死について記された文を読み、遠い記憶のなかからその頃の私を引っ張り出してみた。遠い日の私に刻みこまれた山崎さんの死は、今もなお刻印されたままであることを再認識した。
そして『かつて10・8羽田闘争があった』という本が出版されていることを知った。私と同じように、山崎さんの死が、その時代を生きていた若者たちの、その生き方に鋭い問いをつきつけた、という認識を持っている人々がいるのだということを、はじめて知らされた。山崎さんの死が、それぞれの人生にいかに刻印され、その後どういう人生を過ごしてきたか、そういう文が寄せられているのだそうだ。
読んでみたいと思った。
この展示会、1967年10月8日に、おそらく機動隊に殺された山崎博昭さんの死から50年ということで企画されたそうだ。
当時の首相、佐藤栄作の南ベトナム政府訪問を阻止しようと、学生たちが羽田に向かい、弁天橋で機動隊と衝突、そのなかで山崎さんが殺された。
当時私は高校1年生。思春期の彷徨の時期にあった私は、文学作品を読み、音楽を聴き、自分自身のこれからの生をどうするのか思い悩んでいた。夜遅くまで音楽を聴きながら本を読む生活が続いていた。ある時期は、高校に行く意味はあるのかを考え、しばらく登校拒否になったこともあった。そんなとき、二人の同級生がわが家を訪問してくれ、また通い始めたという経験を持っている。
夏を過ぎ、秋になり、よけいに鬱になり、生きる価値はあるのか、などと考え込み、いややはり生きる価値はない、などと行ったり来たりの思考の中に沈潜していた。
そんなときに、この事件が起きた。これはたいへんな衝撃であった。「反戦のために命を賭けられるか」という問いが、私の前に突きつけられたのだ。
山崎さんは、「反戦のためなら命を賭けられる」と語っていたという。おそらく人生の意味を尋ねる彷徨の中で、山崎さんはそうした方向へと思考を鍛えていたのだろう。
山崎さんの死を、私はどう受け止めればよいのか。さらに私の思考は闇の中に入り込んでいったけれども、ベトナム戦争反対の意志だけは膨れあがり、そうした運動に関わるようになった。
山崎さんの死について記された文を読み、遠い記憶のなかからその頃の私を引っ張り出してみた。遠い日の私に刻みこまれた山崎さんの死は、今もなお刻印されたままであることを再認識した。
そして『かつて10・8羽田闘争があった』という本が出版されていることを知った。私と同じように、山崎さんの死が、その時代を生きていた若者たちの、その生き方に鋭い問いをつきつけた、という認識を持っている人々がいるのだということを、はじめて知らされた。山崎さんの死が、それぞれの人生にいかに刻印され、その後どういう人生を過ごしてきたか、そういう文が寄せられているのだそうだ。
読んでみたいと思った。