浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

小沢の策動は掴まれていた

2017-10-20 23:40:14 | その他


 「前原代表の「想定外」だった 野党大合併、頓挫の理由を明かす」

 田中龍作氏のこの文を読んだ。しかし私は、小沢が野党の統合を画策していたことは事実であっても、前原らにとって、民進党リベラル派議員に対する排除が「想定外」だったとは考えない。小沢の画策を、小池と前原その他が、つぶそうとしたことの結果が、今の事態だと思っている。

 小沢の動きは、まったく秘密裏に行われたのではなく、少数ではあるが、その動きをつかんでいた者がいた。その情報をつかみ、小沢の画策をつぶそうと画策した者が、おそらくいる。その者は、小沢の策動の裏をかくことを考えた。小池や前原らは、その者の指示に従って動いたのだ。小池や前原等には、いずれ論功行賞が行われるはずだ。

 〈追記〉もちろん立憲民主党の結党と同党への国民の支持拡大、他方の「希望の党」の沈下は、「想定外」のことであっただろう。だが、小沢の画策を打破した「功績」は、実に大きいと支配層には判断されるはずだ。小池も、前原その他のその後は約束されるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あらしの前」

2017-10-20 23:32:41 | その他
 総選挙の後、「あらし」がくるという。「あらし」が来るから、警戒せよという情報が流されている。総選挙の直後に「あらし」が来るというのも、何か暗示的である。

 『あらしの前』という児童文学がある。岩波少年文庫である。

 私はずっと前に、といっても大人になってからこの本を読んだ。

 この『あらしの前』を訳したのは、吉野源三郎。岩波書店が発行している『世界』の編集長だったひとである。私はこの『世界』を高校生の頃から読んでいるが、ベトナム戦争が激しい頃、吉野はベトナム戦争に、もちろん反対の立場で論陣をはっていた。それが『同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書)としてまとめられた。私はこの本がとても好きで、折に触れて読み直している。その中でも「一粒の麦」という論文が好きだ。そして序文の「同時代のこと」も。
 この本で吉野が書いたことは、今なお私にとって生きる規範であり続ける。私がもっとも影響を受けた人が、吉野源三郎である。

 だから、彼が書いたもの、翻訳したものは、私にとってすべてが道標となる。

 『あらしの前』というときの「あらし」は戦争である。戦争がオランダに入り込み、ふつうの日常を生きていた家族に襲いかかる。オランダはナチスに降伏するが、ナチス支配下で生きていかなければならなくなったとき、母は「あたしたちは、まだこれからも、じぶんを守っていきましょうね、武器を使ってではなく、正しいことを信じる、あたしたちの信念の力で」と語る。


 これは、吉野のメッセージでもあるのだろう。

 「あらし」が来ても、「あらし」のなかでも、「信念」をもって生きていこう、というメッセージ。それは、『同時代のこと』の序文に書かれていることにつながる。
 
 今日においてもなお、私たちは、人生を知り尽くした上で人生を歩みはじめるということはできないのである。私たちは、誰も彼も、生きてゆきながら、生きてゆくことによって人生を知っていく。こうして人間は何千年の昔から、自己の現実性を知るとともに現実を問題として受取り、それと格闘しつつ環境を変え、その秘密を開き、自分をも変えながら自分を知ってきた。このような人間の行動の集積として歴史が展開して来、展開してゆく以上、歴史的現実に対する私たちの接近も、特に同時代の現実に関する場合、私たち自身の行動や生き方を離れてはあり得ないであろう。問題は、どんな生きてゆく態度、どんな行動の立場が、最も深く現実に喰い入ることを可能にするか、ということにかかる。

 ・・・・・「およそ人間的なものは、何一つとして、私にとって疎遠のものではない」という、テレンチウスの言葉に代表されるような、人間に対する溌剌とした興味と関心、共感と愛情とを備え、したがって一切の非人間的なもの、抑圧的なものに対しては、常にこだわることなく反対の立場に立つ、あくまでも人間的で自由な生活態度を根底とするものであって、このような態度を必要とするのは、ジャーナリストだけに限らないのである。一般に、このような態度こそ、当面する諸問題について私たちがその人間的意味を引き出し問題の徹底的な批判と分析とに向かって踏み出す、最初の動機を形成するだけでなく、批判の足場と方向をも与えてくれるからである。ここに言う人間的なものについては、多くの論議がなお残されているけれど、しかし、水に入らずに泳ぎを覚えることができないように、人間的な関心に身を投じないで人間的なものに触れる事はーーまして、これを論じる事は不可能である。


 「一切の非人間的なもの、抑圧的なものに対しては、常に・・・反対の立場に立つ」こと。そうした信念を持ち続けること、そして信念に基づいて行動し「現実に喰い入る」ことにより、絶望は希望に道を譲るのである。

 「あらし」は、必ずいつかは去る。「あらし」のなかでは、否定すべきことが起こるかもしれない。しかし、「あらし」は必ず去るのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「正義の味方」

2017-10-20 18:56:05 | その他
 国是、ということばがある。国是とは国家の基本方針である。それは日本においては、日本国憲法に示されている。日本国憲法でもっとも大切な国是は、不戦である。戦争をしない、これである。

 1945年8月以降、日本は不戦を貫いてきた。もちろん、対米従属路線をとる自民党という政党が中心となった政権は、アメリカが行う戦争を様々に支援してきた。それも大問題ではあるが、しかし少なくとも日本人はアメリカの戦闘に参加することはなかった。支援はしても、戦闘を担うことはしてこなかった。

 ところが安倍政権になってから、安倍首相はよほど戦争が好きなようで、戦争をしたくてしようがないようなのだ。そのための法整備に余念がない。すでに憲法はそのままではあるが、法律のレベルでその準備がほぼできあがっている。要するに、アメリカの戦争にはせ参じるシステムをつくりあげたのだ。

 他方、アメリカではトランプという、何を考えているかどうかわからない人物が大統領に選ばれた。何を考えているかどうかわからないということは、何をするかわからないということでもある。

 折しも、米朝の非難合戦が激しくなり、アメリカが北朝鮮を攻撃する可能性もでてきている。

 北朝鮮がたとえ核をもっても、あるいはミサイルを開発しようとも、たくさんのミサイルがアメリカに撃ち込まれることはないだろう。またアメリカが北朝鮮を攻撃するとき、日本はその最大の基地となる。米軍基地だけではなく、民間空港も米軍機が使用することになるだろう。朝鮮戦争の時、まさに日本は米軍の出撃基地となっていた。

 もし米軍が北朝鮮を攻撃したとき、日本はどうなるか。

 北朝鮮は、「窮鼠猫を噛む」のことわざのごとく、むっくりと起き上がり、はたしてどこを攻撃するだろうか。

 もちろん日本である。まさにアメリカの戦争に日本が加担し(そのための法整備は「戦争法」として強行採決されている)、日本は戦争の当事国として、窮鼠により攻撃されるのだ。

 安倍首相が行っている政策は、まさにそれを呼び込むものだ。平和な日本は、一夜にして破壊と殺戮の「現場」となる。

 日本人の多くは、日本が戦争の「現場」となることを予想もしていないと思うが、しかし安倍政権の政策は、その方向に着実に進むことができるように、道をつくってきた。

 今なら、間に合うだろう。そうした道から引き返さなければならない。

 不戦という国是、これが間違っているのだろうか。いや、断じて間違っていない。不戦を今こそ高く掲げなければならない。不戦の政治家や政党に票を集めることは、正義である。

 今こそ、私たちは「正義の味方」にならなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「働き方改革」は「働かせ改革」なのだ

2017-10-20 18:23:35 | その他
 あ~あイヤな時代になってきた。しかし、そういう時代でも、きちんと問題に対処しながら生きていかなければならない。問題に対処するということは、様々な事象が問題をはらんでいるかどうかをきちんと把握できるということを意味する。

 そのためには、日々勉強である。学び、考える。それが必要だ。

日本大手電機メーカー、働き方改革を「従業員の監視強化」だと勘違いしていることが明らかに
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと・・・・

2017-10-20 08:20:31 | その他
 原稿締め切りと講座の準備に追われ、自由な読書と自由な思考の時間がない。他方、安倍政権を倒す総選挙が、逆に安倍自公政権の延命に手を貸すことになり、戦後日本の大転換の時期を迎えつつあるという実感を持ち始めた。欺瞞的な「希望の党」が、欺瞞的な前原ら民進党内のnationalist人士と手を組んで行った策動が、戦後日本にまさに最後の楔を打ち込もうとしている。

 しかしいかなる楔が打ち込まれようと、私たちは生きていく。平和で、安定した生活を望みながら。

 さて、雨が降り続いているため農作業ができず、そのために少し時間ができ、『世界』11月号を読み始めた。前号から始まった「〈周縁〉の「小さなアメリカ」」という対談。中村寛と藤永康政によるものだが、私はこの二人の本はまったく読んだことがない。専攻はアメリカ史だからか。

 のっけからこういう文に出会った。

 黒人の歴史とは、抑圧的体制に対するレジスタンス(抵抗)の歴史です。ところが、レジスタンスをあからさまな形で行うと、当然激しい弾圧を受けます。そこで、黒人たちのレジスタンスは、それが一見レジスタンスとは見えない形態をとらざるをえないのです。

 なるほど。レジスタンスに見えないレジスタンスか。きわめて難しい。おそらくそこにはものすごく創造的でユニークなレジスタンスが存在していたということが予想できる。

 確かにアメリカの黒人は、アフリカから連行され、奴隷として世代を超えて抑圧されてきた。まさに「絶望」の日々を、生きてきたはずだ。

 ここで引用されたのが、『(聞書)アフリカン・アメリカン文化の誕生』(岩波書店)からの一節、そのままの引用であるかは不明である。

 すべてを破壊されたかに見えたまさにその瞬間に想像と創造が始まっていたということ、さらにそうした想像と創造の営みに息吹を与えるべく、アフリカ系アメリカ人たちが生き延び続けたということ、ここに彼らの最大の抵抗がある。

 生き延び続けるという「抵抗」。

 これはしかし、「大日本帝国」の時代の、レジスタンスの抵抗でもあった。そのなかで小林多喜二のように虐殺された人々もいたが、しかし生き延びることができた人々もいた。

 これからの時代は、そうした人々の生き方を参照することで生き延びるというレジスタンスが必要なのかもしれない。

http://www.fujinaga.org/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする