総選挙の後、「あらし」がくるという。「あらし」が来るから、警戒せよという情報が流されている。総選挙の直後に「あらし」が来るというのも、何か暗示的である。
『あらしの前』という児童文学がある。岩波少年文庫である。
私はずっと前に、といっても大人になってからこの本を読んだ。
この『あらしの前』を訳したのは、吉野源三郎。岩波書店が発行している『世界』の編集長だったひとである。私はこの『世界』を高校生の頃から読んでいるが、ベトナム戦争が激しい頃、吉野はベトナム戦争に、もちろん反対の立場で論陣をはっていた。それが『同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書)としてまとめられた。私はこの本がとても好きで、折に触れて読み直している。その中でも「一粒の麦」という論文が好きだ。そして序文の「同時代のこと」も。
この本で吉野が書いたことは、今なお私にとって生きる規範であり続ける。私がもっとも影響を受けた人が、吉野源三郎である。
だから、彼が書いたもの、翻訳したものは、私にとってすべてが道標となる。
『あらしの前』というときの「あらし」は戦争である。戦争がオランダに入り込み、ふつうの日常を生きていた家族に襲いかかる。オランダはナチスに降伏するが、ナチス支配下で生きていかなければならなくなったとき、母は「あたしたちは、まだこれからも、じぶんを守っていきましょうね、武器を使ってではなく、正しいことを信じる、あたしたちの信念の力で」と語る。
これは、吉野のメッセージでもあるのだろう。
「あらし」が来ても、「あらし」のなかでも、「信念」をもって生きていこう、というメッセージ。それは、『同時代のこと』の序文に書かれていることにつながる。
今日においてもなお、私たちは、人生を知り尽くした上で人生を歩みはじめるということはできないのである。私たちは、誰も彼も、生きてゆきながら、生きてゆくことによって人生を知っていく。こうして人間は何千年の昔から、自己の現実性を知るとともに現実を問題として受取り、それと格闘しつつ環境を変え、その秘密を開き、自分をも変えながら自分を知ってきた。このような人間の行動の集積として歴史が展開して来、展開してゆく以上、歴史的現実に対する私たちの接近も、特に同時代の現実に関する場合、私たち自身の行動や生き方を離れてはあり得ないであろう。問題は、どんな生きてゆく態度、どんな行動の立場が、最も深く現実に喰い入ることを可能にするか、ということにかかる。
・・・・・「およそ人間的なものは、何一つとして、私にとって疎遠のものではない」という、テレンチウスの言葉に代表されるような、人間に対する溌剌とした興味と関心、共感と愛情とを備え、したがって一切の非人間的なもの、抑圧的なものに対しては、常にこだわることなく反対の立場に立つ、あくまでも人間的で自由な生活態度を根底とするものであって、このような態度を必要とするのは、ジャーナリストだけに限らないのである。一般に、このような態度こそ、当面する諸問題について私たちがその人間的意味を引き出し問題の徹底的な批判と分析とに向かって踏み出す、最初の動機を形成するだけでなく、批判の足場と方向をも与えてくれるからである。ここに言う人間的なものについては、多くの論議がなお残されているけれど、しかし、水に入らずに泳ぎを覚えることができないように、人間的な関心に身を投じないで人間的なものに触れる事はーーまして、これを論じる事は不可能である。
「一切の非人間的なもの、抑圧的なものに対しては、常に・・・反対の立場に立つ」こと。そうした信念を持ち続けること、そして信念に基づいて行動し「現実に喰い入る」ことにより、絶望は希望に道を譲るのである。
「あらし」は、必ずいつかは去る。「あらし」のなかでは、否定すべきことが起こるかもしれない。しかし、「あらし」は必ず去るのである。