ユーチューブで、劇団民藝「どん底-1947・東京-」が見られる。
劇団民藝といえば、滝沢修、宇野重吉らがいた劇団だ。宇野重吉も言うまでもなくユニークな存在感があった役者であるが、私にとっては滝沢修がすごかったという思いがある。滝沢は舞台の上にいるだけで、台詞を発することがなくても、舞台全体を引き締めていたし、その圧倒的な重量感をひしひしと感じていたものだ。
そしてこの民藝の「どん底」。出演している役者らの、なんとも個性的な、重量感ある演技であることか。
私は、この「どん底」のような劇が好きだ。演劇鑑賞会には、いろいろな劇団や集団がやってくるが、最近はカルイものが多くなっている。そうしたものは私の心に何も入り込んでこない。
しかし「どん底」は、私自身の精神にぐいぐい入り込み、思考の回路を活発化させる。演劇は、ただ楽しむためのものではなく(もちろんその要素は必要であるが)、人生に多少の刺激を与えるものである。
今日も、「どん底」を見ていろいろ考えさせられた。ゴーリキーの「どん底」ではない、戦争直後の「どん底」である。登場人物は皆「戦争」を背負ってこの地下の世界に入り込んできた。それぞれのその「戦争」が劇中で語られる。みずからが好んでやった「戦争」ではない。にもかかわらず、そのしわ寄せは、こうした庶民にのみ襲いかかる。
しかし人間は、どういう状況にあろうとも、生きている以上は生きなければならない。なぜ人間は生きるのか。そうした問いに対する答えの入り口が、この劇にはある。
絶望?いや生きている以上、よりよい、少しでもよりよい明日を夢みて、人は生きていく。そうでなければ、あまりに悲しいじゃないか。