1967年10月8日、佐藤栄作首相のベトナム訪問を阻止すべく、羽田の弁天橋で学生と機動隊が衝突、そのなかで京大1回生の山崎博昭くんが殺された。18才だった。
山崎くんが卒業した大阪の大手前高校卒業生、当時学生運動に関わった人、救援活動にかかわった人が、山崎くんの死という衝撃をどう受けとめたのか、そしてその死を背負いながらどのような生き方をしてきたのか、ドキュメンタリー監督の代島治彦が彼らにインタビューしたその内容が記録されているのが本書である。
同時に、それは映画となっている。3時間20分の作品である。残念ながら、地方に住む私はみることが出来ないので、本書を読むことにした。
本書には14人のインタビューが掲載されている。その14人よりも私は若いが、しかし同じ時代の空気を吸っているので、そしてまた運動に若干関わってもいたので、彼らが語ることが実感として私に迫ってきた、だからこそ一気に読み進んだ。
あの頃、ベトナム戦争、いうまでもなく世界最大の軍事大国がベトナムに侵略し、残虐な兵器を使用し、ベトナム民衆を殺戮していた。私もベトナムで行われていた戦争に心を痛め、何とかその侵略を止めなければならないという気持ちをもって、ベトナム戦争反対の動きに参加していった。私が政治に強い関心をもった契機は、このベトナム戦争であった。そしてベトナム民衆を殺戮する「作業」に日本も加わりカネ儲けをしていることを知り、日本国家のあり方に強い疑問を持った。
ここに登場した人々が何らかの行動をはじめた背景に、同じようにベトナム戦争があった。出発は、人道的な怒りであった。
その怒りから出発して、中にはセクトに入っていった人もいる。山崎くんは中核派と関わりを持っていた。しかしそれはセクトについてのきちんとした理解からではなく、人的結合からセクトと関わりを持つようになったようだ。
私も高校生のとき、静岡大学の学生と読書会をしたが、彼らは社学同怒涛派であった。私自身はそのセクトがどういうものかは知らず、セクトの人との交流はそれだけだった。
大手前高校の活動家は中核派との関係が強かったようだ。ここに登場する人々も多くは中核派の活動家となったが、最終的にはそこから離れていく。そこからの離脱の仕方はそれぞれ異なり、また早かったり遅かったりしている。組織の一員となることは、上意下達の命令系統の中にみずからを置くことになる。しかし当然のごとく、そうした系統に彼らはなじむことが出来なくなる。
インタビューされた人々のその後の生き方から教えられることも多く、また同感することも多かった。誰かのインタビューに、幼いと言われる、ということが書かれていたが、私も、この歳になってもそう言われる。少年の頃の思いというものをいつももっているようなのだ。
この本の特徴は、インタビューだけではなく、監督である代島の「ぼくの話」が途中にはさまれている。これもまたよかった。山崎くんの世代から10年ほど遅れて生まれた代島が、その世代に思いを馳せ、自分自身の生の軌跡を振り返る。それがよかった。
インタビューされた方々の生と、代島の生が絡み合って、うまい具合に調和している。
その「ぼくの話」の3に、
ひとりひとりの「記憶」を時代に埋葬しなければ、それはただのひとりの「記憶」のままである。しかし、もし埋葬したなら、豊かに「記憶」の実を結ぶようになる。
と書かれていた。代島がなぜ山崎くんにかかわった人々のインタビューをしたのか、その理由だと思った。
最近社会学者達が社会運動史に関心をもち、『社会運動史研究』という雑誌を刊行したり、1960年代後半から70年代はじめの「闘争」について書き始めている。それらの内容に私は異和感をもちながら、そうして振り返るのはよいことだと思っている。異和感を持つという理由は、その時代の史料に依拠して、当事者たちの「記憶」にもとづいて構築された歴史ではなく、ある種の思い込みと様々な文献をたくさん寄せ集めて叙述されていることに、あの時代の「空気」が消されてしまっていると思うからだ。
あの時代の「空気」を含めて、あの時代はきちんと史実にもとづいて叙述されなければならない。
14人のインタビューは、あの時代とそれに続く現在までの時の流れをうまくとらえていた。あの時代の「こころざし」は、いろいろ異なった表現をとっているが、彼らのなかにくすぶっていることがよくわかった。
私のなかにも、それはくすぶり続けている。
とてもよい本である。多くの人々に読まれることを望む。