浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

コロナに感染すると・・・

2022-02-06 22:15:11 | コロナ

 作家の柳美里さんが感染されたとのこと。彼女のTwitterでは、それについて詳しい情報を流している。

 愛媛県の離島で執筆に励んでいたところ、神戸に行き、おそらくそこで感染、離島で症状がでて(1月29日)、陽性が判明(2月2日)。感染後の厳しい状況を綴っている。

 彼女は、

「オミクロンに感染して、現在自宅療養中の私が言えることは、「オミクロンは、断じて、ただの風邪ではない。インフルエンザより辛い・・・」

 と書いている。

 それが「軽症」と判断される。

 オミクロン株は「軽症」・・・だと報じられるが、その「軽症」という内実を知るべきだ。

 柳美里さんのTwitterを読んで欲しい。そして心ないツイートはやめて欲しい。

 柳美里さんの早期のご回復を祈ります。

 

 

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【本】京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館)

2022-02-06 21:23:02 | 

 牛車、平安貴族が乗ったものである。副題が「平安貴族と乗り物文化」となっている。

 牛車については、古文ででてくるが、日本の歴史ではあまり取り扱われない。しかしふと牛車の説明を読んだとき、牛車にも種類があり、身分によってどの牛車に乗ることができるのかが異なる、とあったので、この本を図書館から借りてきたのである。

 牛車には、唐車、檳榔毛車、糸毛車、網代車、八葉車、文車とあり、身分により乗る車が異なっていること、後ろから乗り込み前から降りること、牛車は4人乗りであることなど細かいことを知ることができた。

 そして著者が頼りにした文献のひとつは、『故実叢書 輿車図考』であり、それは老中を退いた松平定信が中心となって著したものだということ。

 著者の考証は、中古文学、「枕草子」「蜻蛉日記」「小右記」「源氏物語」などを駆使して、牛車の実態に迫っていくというもので、ここまで調べているのかと驚くものであった。

 たいへん勉強になった。日本史の教科書にはでてこない、こうした細部を知ることはなかなか面白い。

 

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【本】阿部公彦『史上最悪の英語政策』(ひつじ書房)

2022-02-06 18:26:16 | 教育

 日本人は英語を話せない、文教政策に影響を与える政治家諸君も話せない、日本人に英語を話すことができるようにしたい、といって、かなり前から英会話中心のオーラル優先が行われてきた。

 しかし一向に、英会話はできないままだ。

 文科省も官僚が運営している。今度の新型コロナウイルスに関しても、官僚たちは専門家の声を聞かずに、能力もないくせにカラ自信をもった彼ら(「医系技官」)が言いように方針をつくり、その方針についてくる「有識者」というワンコを引き連れて施策を行ってきた。そして失敗しても、誰も責任をとらずに、間違った施策を平然と続ける。

 教育政策も同様だ。

 本書は、文部官僚と無能な政治家たちが始めたオーラルの英語教育がなぜだめか、またTOEICなどの業者にカネ儲けさせるために急に叫び始めた「4技能」がいかにダメなスローガンであるかを、失礼にならないように、しかし本質的なところから厳しい批判をしている。

 私が英語教育に関してもっている考えとほとんどかわらない内容であった。読んでいて教えられたことはTOEICのことである。

 日本では「知識・教養としての英語ではなく、オフィスや日常生活における英語によるコミュニケーション能力を幅広く測定します」とあるが、アメリカでは、TOEICを使えば「企業は、より質の良い従業員をそろえられます。求職者や従業員は、競争力を身につけられます」などとして宣伝しているとのこと。つまり、競争社会における英語の出来る労働者を雇用することを目的としているのだ。

 それが大学入試に利用されようとしているのである。

 新自由主義の魔の手が、最近の英語教育を侵食しているのだ。

 本書は厚い本ではない。簡単に読めるものだ。

 私は、英語教育での文法、訳読が重要だと思う。英語の文献が読めなくて、内容のない英会話だけできればよいのか、ということだ。 

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藤森常次郎のこと

2022-02-06 16:52:18 | 歴史

 「静岡新聞」の記事を読んで思いだした。

 米飯の持参を始めたのは、当時磐田郡豊岡村の村長、藤森常次郎であった。豊岡村は磐田市に合併してしまったが、先進的な村政を展開していた。

 私は『豊岡村史』の執筆者として、すでにその頃は引退していた藤森氏を訪ねて何度かお話しを聴いたことがある。「持参米飯」については、新聞記事に任せることとして、他にも唸るような施策を行った。その施策を一緒になって考えたのは、その後村長になった佐藤茂雄氏であった。藤森氏も、佐藤氏も、アイデアマンであった。村のために何が出来るかを必死に考えた人達であった。今の首長には、おのれの栄達のために立候補した者が多いが、この二人は村のために、村民の利益のために働いていた。

 「持参弁当」のほか、田床改良事業。豊岡村は天竜川と磐田原台地をその村域としている。天竜川は、浜松市側の三方原大地と磐田原大地の間を自由に流れていた。したがって、平野部の地下には天竜川が運んできたたくさんの砂利が埋まっている。

 豊岡村の田地は、天竜川の冷たい伏流水が田床から湧いてくる。したがって米の出来は良くない。藤森は、地下に埋まっている砂利を販売し、その業者に田床をタダで改良させた。地下から冷たい湧き水の浸出を防ぐためだ。その結果、豊岡村の米の生産力はアップした。

 この方法は、天竜川の両岸で、今も行われている。

 豊岡村の景観は、今も農村そのものである。しかし工業生産高は高かった。藤森は、県内外の優良企業を誘致し、それも天竜川沿いの農業の不適地に工場を立地した。藤森氏は、これからは農業だけでは生活できない、工場などで働きながら農業を維持していくことが必要だからだ、と語っていた。誘致した企業は、ヤマハ、同和メタル、浜松ホトニクスなどである。現在浜松市に合併したが、当時の浜北市よりも工業生産高はずっと高かった。

 また計画的な土地利用のために、村全体を市街化調整区域にし、土地利用の規制をはかった(工場地区、農業地区として乱開発を許さないという決意であった)。磐田市に合併したあとそれは解かれ、規制は緩和された。

 また東名高速道路ができたとき、藤森氏は豊岡村の南側に盛り土ができるのはよくないとし、橋脚で建設させた。

 その他、村(村民)のためのユニークな施策を行った。全国的にも早い時期の予防医療への取り組みなど。そのすべてを書くことはできないが、私は豊岡村が磐田市に合併するという話しを聞いたとき、すでに藤森氏は他界していたが、藤森氏は悲しむだろうと思った。藤森氏は、日本一の村づくりを目ざしていたからだ。

 『豊岡村史』の戦後部分は、藤森村政を詳しく書いた。地方自治体の首長のあるべき姿を描いたつもりである。

 

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