「静岡新聞」の記事を読んで思いだした。
米飯の持参を始めたのは、当時磐田郡豊岡村の村長、藤森常次郎であった。豊岡村は磐田市に合併してしまったが、先進的な村政を展開していた。
私は『豊岡村史』の執筆者として、すでにその頃は引退していた藤森氏を訪ねて何度かお話しを聴いたことがある。「持参米飯」については、新聞記事に任せることとして、他にも唸るような施策を行った。その施策を一緒になって考えたのは、その後村長になった佐藤茂雄氏であった。藤森氏も、佐藤氏も、アイデアマンであった。村のために何が出来るかを必死に考えた人達であった。今の首長には、おのれの栄達のために立候補した者が多いが、この二人は村のために、村民の利益のために働いていた。
「持参弁当」のほか、田床改良事業。豊岡村は天竜川と磐田原台地をその村域としている。天竜川は、浜松市側の三方原大地と磐田原大地の間を自由に流れていた。したがって、平野部の地下には天竜川が運んできたたくさんの砂利が埋まっている。
豊岡村の田地は、天竜川の冷たい伏流水が田床から湧いてくる。したがって米の出来は良くない。藤森は、地下に埋まっている砂利を販売し、その業者に田床をタダで改良させた。地下から冷たい湧き水の浸出を防ぐためだ。その結果、豊岡村の米の生産力はアップした。
この方法は、天竜川の両岸で、今も行われている。
豊岡村の景観は、今も農村そのものである。しかし工業生産高は高かった。藤森は、県内外の優良企業を誘致し、それも天竜川沿いの農業の不適地に工場を立地した。藤森氏は、これからは農業だけでは生活できない、工場などで働きながら農業を維持していくことが必要だからだ、と語っていた。誘致した企業は、ヤマハ、同和メタル、浜松ホトニクスなどである。現在浜松市に合併したが、当時の浜北市よりも工業生産高はずっと高かった。
また計画的な土地利用のために、村全体を市街化調整区域にし、土地利用の規制をはかった(工場地区、農業地区として乱開発を許さないという決意であった)。磐田市に合併したあとそれは解かれ、規制は緩和された。
また東名高速道路ができたとき、藤森氏は豊岡村の南側に盛り土ができるのはよくないとし、橋脚で建設させた。
その他、村(村民)のためのユニークな施策を行った。全国的にも早い時期の予防医療への取り組みなど。そのすべてを書くことはできないが、私は豊岡村が磐田市に合併するという話しを聞いたとき、すでに藤森氏は他界していたが、藤森氏は悲しむだろうと思った。藤森氏は、日本一の村づくりを目ざしていたからだ。
『豊岡村史』の戦後部分は、藤森村政を詳しく書いた。地方自治体の首長のあるべき姿を描いたつもりである。