『世界』3月号が届いた。最初に読んだのは、渡辺豪の「沖縄半世紀の群像」の1,川平朝清さんのことを書いたものだ。
その冒頭に、1950年代はじめの、アメリカの沖縄研究者であるジョージ・H・カーの文があった。
日本が琉球王を廃位させ、琉球の実権を握って以来80年、日本は経済的にも、文化的にも琉球の命の綱となった。しかし日本にとって琉球は単に軍事的な前線基地として、あるいは中国と争って我が物としたために19世紀日本の“顔"が立つことになった一種の 植民地としてのみ、重要性があった。日本の政府はあらゆる方法をもって琉球を利用するが、琉球の人々のために犠牲をはらうことを好まないのである。
まったく変わっていない。ずっと本土は沖縄を利用するだけの地域として扱ってきた。
これは差別である。渡辺は、日本人の沖縄(琉球)差別を、沖縄出身の川平の人生やことばを通して語っていく。
沖縄差別は、構造的なものだと私は考えている。沖縄に対する日本国家の差別政策は一貫していて、その差別政策のうえに日本に住む人々は意識を形成してきた。国家が差別しているのだから、オレが差別して何が悪い、という論理。
1952年4月23日の「天声人語」が引用されている。講和条約発効を寿ぐ内容であるが、そこには沖縄のことはいっさい視界に入っていない。
これもまた、現在の日本に住む人々の意識である。
米軍基地で苦しむ沖縄は視界にはなく、ある時に訪問する観光地としての沖縄でしかないのである。
日本への「返還」前の沖縄の高等弁務官のなかでもっとも嫌われたキャラウェイ。彼が言ったことを川平が語る。
「日本に復帰しても「沖縄県」の自治権が重んじられることはない」
「日本の閣僚は二枚舌だ、気を付けろ」
なるほど、その通りである。
日本と沖縄の関係は変わらない。日本国家は、沖縄に住む人々のことをいっさい顧慮しない。そうであるから、日本に住む人々も右に倣えする。