実家は、ホソバと読んでいる槇の垣根に囲まれている。三方はわが家のホソバであるが、裏側だけは父が生まれた本屋(本家とふつういうだろうが、わが地ではホンヤ)のものだ。私が生まれる前からのもので、2m以上ある。その槇が、今日切り倒された。裏から見れば、わが家は裸となった。
ホンヤは跡継ぎがいない。だから広い庭を売るのだ。すでに買い手のものとなり、そこに五軒の家を建てる(あるいは分譲地として販売する?)ことになっている。
今日、私は午前中仕事があったために、午後からその作業を見つめていた。すでに庭にあった柿や梅などの木々はなくなり、あとは周囲のホソバだけを切り倒す作業だ。そこは、私の従姉の家でもある。からだを壊して施設にはいっていて、時々帰ってくるのだが、今度帰ってくるときにこの光景を見たらどうなるだろうと心配している。
自分自身が成長していくなかで、あちらこちらに思い出の場所が出来ている。しかしその場所が大きく変化していく、なくなっていく。記憶のなかだけに残される。
こうした変化は、いろいろな思いや記憶を蹴散らしていく。
思い出の場所が消えていく、ということは、自分自身の生が消されていく?ということか。
明日、作業は終わる。そのあとは、別の業者が整地などをしていくのだろう。
父や先祖たちが積みあげてきたたくさんの長い、長い歴史が消されていく。彼らの思いを推し量る。その思いに、私のそれも重なる。