今日、京都部落問題研究資料センターから、『差別の歴史を考える連続講座 講演録』が届いた。2021年度の版である。
同センターは毎年連続講座を開催し、その内容を本として刊行している。内容は、差別に関わる諸々のことである。被差別部落、朝鮮人、貧困者、外国人、女性、障害者、ハンセン病患者・・・・・・に対して差別行為が行われてきた。差別はなくならない。
差別意識は日常のなかに出現し、また消え、また現れる。しかし、その差別意識が社会の中にひろがっていき、社会的差別意識として「成長」していくものもある。とりわけ公権力が差別を容認し、促進するとき、差別は固定化し、人びとは差別の表出をためらうことをしなくなる。
ここで私の差別論をこれ以上主張することはしないが、差別はあちこちに転がっていることだけは確かである。
さて本書の最初の講演録は、「戦後バラックと京都」(本岡拓哉)である。戦後、京都だけではなく、簡易的な住宅があちらこちらにつくられた。そこには貧しい人びとが集住した。そのバラックについて、どのような人が住んだのか、いつ頃誕生し、なくなったのか、そしてそこに住んでいた人々はどこへいったのか・・が書かれている。
読んでいて、幼い頃のことを思い出した。私が小学生の頃は、まだまだ貧しかった。私には自宅があり、農地も少しあった。母子家庭ではあったが、母は公務員であったから、ふつうの生活はできていた。
しかしそうではない家庭もあった。寺の隣にお堂があった。窓もなく暗い一部屋に一家が住んでいた。お堂という寺の施設であるから台所もトイレもない。お堂の前に、簡易的な台所やトイレがあった。同じ歳の子どもがいたので、いつも一緒に遊んでいたし、そういう家だからということで特段差別することもなかった。中学生になってその子とは遊ばなくなった。そしていつのまにかその一家はどこかへ引っ越していった。
私の住むところから東の方には小さな川があった。その川の東を「川東」といっていたが、そこには小さな長屋が並んでいた。バラックというイメージの長屋であった。私が住む「川西」は昔からの農家が並んでいるところであった。あるときその川で魚とりをしていたら、母がやってきた。そしてすぐにやめさせられて帰宅、裸にされて全身を洗われた。「こんな汚い川で遊んではいけない」というようなことを言われた記憶がある。
しかし今、そこは狭い家が多いけれども、新しい家がたっている。昔からの住人がいるかどうかは知らない。
バラックというと都市というイメージを持つが、高度経済成長の前の時代には、バラックのようなところがあちこちにあったと思う。天竜川の堤防下には、「朝鮮人部落」もあった。
小学校の低学年のときには、水道ではなく井戸であったし、ズボンや靴下もつぎを当ててはいていた。
貧しい時代であった。この文を読みながら、その時代を思い出した。