私は、今まで自治体史の編纂で近現代史を担当してきた。私の視点は、「大日本帝国」を地域が担ったという視点から、自治体史が陥りがちな当該地域のみの歴史ではなく、当該地域に生きた人びとがどこに行き、どういうことをしたのか、あるいは当該地域に入ってきた人たちはどういうことを強いられたのか・・・・ということを書いてきた。当該地域の人びとは外国にたくさん行っていた。戦争をするためであった。女性も従軍看護師として外国に行っていた。
その彼らが残した手紙や生きて帰って来れた元兵士が記した従軍記などを、その戦争の全体の動きに位置づけて記していった。戦場に動員された人びとは、自分自身がどういう戦争に参加したのか、どういう「敵」と戦ったのか、参加した戦闘がどういう位置にあったのかなど、マクロに見ることはできなかった。国家や上官の命令によって、蟻のように這いずり回って戦った。
いつも書いていて思ったことは、戦争は悲惨であり、残酷であり、そこに何らの意義も見つけられないということだった。ミクロな戦争をみつめながら、戦争はしてはいけない、戦争に反対し、平和を維持しなければならないということであった。
戦争が起きると、庶民が苦しむ。しかし他方、戦争によって肥え太る者もいる。肥え太る者は、しかし戦場には行かない。
だから、だから庶民は戦争をしてはいけない。
ウクライナでの戦争、できるだけ早く止まって欲しいと思う。ロシア軍の侵略・蛮行に抵抗するウクライナの人びとに思いを馳せながら、侵略を始めたロシアの支配層は何をしているのかと思う。彼ら支配層のなかで、理性的にものを考えることができる者はいないのか。ロシアがこの戦争で得るものはない。国際的に非難され、経済的な制裁を受け、ロシアの庶民は兵士とされて死傷し、ロシア軍が一般的に思われていたほどの力を持っていないことが暴露され、この戦争でロシアの目的は達せられないことがほぼ明確になっている。もうやめるべきだ。
やっと、ロシアの支配層のなかから、プーチンの戦争を批判する者が出て来たようだ。国際法を踏みにじり、ウクライナの人びとを殺戮し、生活の場を破壊した責任を、ロシアは負わなければならない。