『現代思想』、「ウクライナから問う」に、ドメイトロー・ドンツオーウの「モスクワ人魂」の翻訳が載せられていた。
まずショックだったのは、プーシキンの「転向」が記されていたことだった。高校生の頃、プーシキンの詩に心を高ぶらせていた。プーシキンはデカブリストの乱の周辺にいた。ところが彼は「ロシア専制政治」の宮廷詩人となったのだという。
同時代の詩人がこういう詩を書いている。
彼は自由を人びとに布教せり/ツァーリを民とともに裁きに呼べり/しかるにツァーリのシチュー(キャベツスープ)を味をしめるや/宮廷の皿まで舐めるおべっか使いと成りにけり
何ということだ!
そしてドンツオーウはモスクワ人=ロシア人の特徴を記している。
・・彼らの「自然な状態」とは、本物の力の奴隷であることである。このような力が彼らの眼前に立ち上がるところ、彼らは跪く。我が君主の前で、もしそれがピョートル一世かスターリンのような者であったれば、そして外国人の前で、もしそれがタタールの汗(ハン)のような(強大な)者であったれば跪いて改悛する。そうでない者たちには、襲い掛かり齧りついて噛み殺す。
ロシア専制政治により支配され、その後社会主義権力のスターリンにより支配されてきた人びとが、一挙にそうした習性から脱して自由人になることはない。奴隷状態のまま生きてきた、というのだろう。
しかし、権威や権力者に従属的であるという習性、長いものには巻かれろ、そして自分よりも「弱い」と見做した者には、暴力を振るう、暴力を振るわなくても、暴言を吐く、という習性は、日本人のものでもある。そうした姿を、たくさん見てきた。ロシア人の習性は、同時に日本人のそれでもある。
そのような習性は、学校で強く育成される。目立たないように、まわりと同調する。教師に逆らわない。抑圧された感情は、イジメという陰湿な行為へと転化する。イジメの相手は、「弱い」とみなした者である。
ロシア社会と日本社会は、似ているのだろうか。