『週刊金曜日』の「乱気流」で、いろいろな支援活動をしている雨宮処凛さんがその実態を短い文章で紹介している。新宿で行われている食品配布には行列ができていて、コロナ前と異なり600人をこえる人びとが並ぶのだという。それだけ生活に困窮している人が多いということだ。
しかし、そのような人々に対する公助はほとんどないに等しい。雨宮さんは困窮した人びとに生活保護を受けることをすすめるのだが、「生活保護だけはイヤ」と言われるのだそうだ。
そこで雨宮さんは、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)という本を出版した。
「学校では教えてくれない」とあるが、私は必ず教えていた。「現代社会」という教科で、労働基準法、生活保護については詳細に教えていた。一定の状況を設定して、その場合どうしたらよいかをきちんと説明し、覚えてもらうように試験にも詳しく出題した。
生活保護については、自分が働いているときには税金を払っているのだから(今は働いていなくても消費税をとられる!)、自分が困ったときには国から援助してもらうのは当然だなどと説明していた。
しかし一般的には、生活保護制度を活用することに、ためらいがあるようだ。雨宮さんもそういう体験を記している。そのためらいをどのようになくしていくのか。やはり権利意識が日本は希薄ということなのだろう。
最近の物価上昇は、私の生活をも脅かしている。私はキャッシュで支払うことを原則としていることから、銀行からカネをおろしても、最近はすぐに消えてしまう。
私ですらこうなのだから、家族を養う非正規の家庭ではとてもたいへんだろうと思う。
生活保護を含めた公的扶助制度をより使いやすいように改革をしていく必要もある。
統一教会党である自民党にはそうしたことに関心をもつ者はいないだろう。では野党はどうだろうか。最近の野党の動向をみていると、う~んと唸ってしまう。
政治を変えなければ、と思うが、その主体がみつからない。
これは重要。関東大震災の際、多くの朝鮮人、中国人が虐殺されたことは事実である。その事実を、東京都の職員が認めたくないようだ。自治体の公務員の劣化が露わになっている。みずからの出世のために、「上意」を忖度する劣化した人間が役所には群がっている。
朝鮮人虐殺「事実とすることに懸念」 メールに透けた都の〝本音〟
『週刊金曜日』の「政治時評」で、北海道新聞の記者・長谷川綾さんが「「工場の中に憲法を」名物オルグの至言」を書いている。
札幌地域労組の鈴木一さんは組合を結成させるベテランだとのこと。その鈴木さんが『小さな労働組合 勝つためのコツ』という本を出したとのこと。その鈴木さんの口癖は「工場の門前で憲法は立ち止まる。けれども労働者が声をあげれば、工場の中に憲法は入る」だそうだ。
この「工場の門前・・」はかつて聞いたことがある。熊沢誠さんが『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』という本を出版している。
実際工場では、ほぼどこでも民主主義はない。かつては闘う労働組合があり、組合によって工場内に民主主義を維持していた。しかし、使用者はそうした労働組合を毛嫌いし、労働者の一部をたきつけて第二組合を結成させ、労働者を分断してきた。そうした第二組合結成に力を貸したのが、かつての同盟である。彼らは、富士政治大学などで学び、使用者と連携して労働者の力を抑えてきた。
その同盟が主導してできたのが連合である。その会長が自民党と連携することは当然のことである。同盟が使用者と連携して労働者を分断してきたように、連合は統一教会党=自民党と連携し、労働組合を親睦会として、あるいは労働者管理の組織として生かし、権利などを主張しない組織として利用したいのである。
今やあるべき労働組合は風前の灯である。「労働戦線の統一」という良さげなスローガンに丸めこまれた総評の社会党幹部たち。そして連合が結成されるとき、自分たちの勢力を集めて労働者を引き裂いて組織を結成させた共産党。その結果、自治労と自治労連、日教組と全教・・・というように、連合系の組合と共産党系の組合が並び立ち、前者は闘わなくなり、後者は組織人員が減少することとなった。もちろん、労働運動の停滞は、支配層と支配層におべっかをつかう第二組合がつくりだしたものだが、それにのった社会党、共産党の罪も大きいと私は考えている。
このような状況下、北海道では小さいながらも労働組合が150以上結成されたという。すでに私は働いていないし、労働運動にタッチすることもないので読むことはないが、現役の労働者は読んで勉強すべきではないかと思う。出版社は寿郎社だとのこと。
良書である。新書というボリュームであるにもかかわらず、内容は専門書である。古今東西の文献を渉猟して、「人種主義」を歴史的に跡づけ、そして現代の問題へと書き進む。
おそらくこの本を書くために、著者は膨大な時間をつかったであろうと思う。
専門的でもあり、また一般的でもあるこの本は、人種というものを考える最適なテキストとなるであろう。
とても勉強になった。今まで見たことがある語彙、たとえば「コーカサス人種」などというものがどのような経緯でつくられてきたかなど、不確かなものを安定した知識として定位してくれた。
本書の素晴らしさを書き綴るのは容易ではない。それほど多岐にわたる論点を文献にもとづいて、きちんと論じているので、実際に手に取って読んでいただきたいと思う。
終章「再生産される人種主義」には、現在の差別問題を考えるに際しての有益なことが記されている。差別問題がやっかいなのは、こういうことがあるからだ。
今日では多くの人が種々の差別に関心をもち、それらをなくそうと積極的に行動しないまでも、差別のない世界を望んでいる。しかしこの問題の困難は、無意識のうちに、場合によってはむしろ善意のうちに、人種主義に加担してしまう場合もあること、しかもそれが日常レベルで多く起こることではないだろうか。(241)
差別意識というのは、人びとの中で、日々生まれては消え、消えては生まれる。それは仕方がないことである。しかしだからこそ、その差別を差別として謙虚に認め、差別はいけないことであると認識し、生きていく上での教訓としていかなければならないのである。
人種主義はマクロな世界の情勢と絡みつつ、個々のミクロなレベルで異なる反応を引き起こし形を変えながら、身近なところで再生産され続けている。(241)
問題は、否定すべき差別(人種主義)を、公的権力が認めないことである。あるいはそれは差別であると糾弾しなければならないのである。しかしわが国では、公的権力に関わる者たちが、平然と差別を黙認し、さらには差別を助長するという事態をつくっている。わが国の差別は、公的権力が強化しているように思う。
統一教会党である自由民主党は、「差別は許されない」ということばが気に入らないようだ。ということは、彼らは差別をする、差別したがる政党であるということだ。