戦時下、日本本土だけではなく、沖縄にもラジオ放送局が設けられた。当然、アジア太平洋戦争の進展の中、沖縄も戦場となる。副題に、「軍隊に飲み込まれたラジオ」とある。
本書は、沖縄だけではなく、パラオ、フィリピン、インパールの放送局にも言及している。日本の帝国軍隊が侵攻していった地域にラジオ放送局がつくられ、ラジオは宣撫工作の機関としての役割を果たすことが求められていた。
この本では、日本放送協会が提供するラジオ番組が、戦時下、国策に対応したもの、いや国策そのものであったこと、日本放送協会が日本の軍国主義と一体化していたことが明かされている。残念ながら、どういうことが報じられたのかは断片的にしかわからないが、インパールにまでラジオ局が設置されたということは、ラジオは侵略の尖兵の役割を果たすことが期待されていたということなのだろう。
今まで知らなかったことを、このように発掘されたことに、私は敬意を表したい。戦時下、日本軍の侵攻先のあちこちでラジオ放送局が設置されていたという事実に、私は驚愕した。
この本が対象としているのは、沖縄戦における沖縄放送局の終焉を描いている。放送局員が放送局を維持しようという使命感、他方では高揚する戦意に心を揺るがせながら、結局は戦火に吞み込まれていった事実が記される。
さて渡辺氏は、摩文仁においてこのような感懐を記している。
放送って一体何なのだろう。本来、生活を豊かにするはずのものだが、戦世のなか、荒波に抗えず変容した事実が重くのしかかってくる。平時には、歌や音楽などの娯楽や知識・情報を提供してきた放送局が、有事に際し、戦争を礼讃し人々を鼓舞しかりたてた。その挙句に軍に飲み込まれ、職員たちを死の境地にまで追い込んでいった、消しようのないあまりにも重いリアルな歴史。戦争という巨大な暴力に直面したとき、放送はどうしたらいいのだろうか。そして、私に何ができるだろうか。決して他人事ではない難題が匕首のように胸元に突きつけられていた。(190)
これを読んでいて、しかし今のNHKが、平時(といっても「戦前」かもしれない)に、憲法を無視し戦争準備に明け暮れる岸田政権の広報機関として存在していることに、渡辺氏はどのような気持ちをもっているのだろうかと疑問を持った。
エピローグで、渡辺氏は「時代が戦争に向かうとき、真っ先に弾圧を受け、統制されるのは言論、そしてメディアである。」(198)と記しているが、弾圧されるでもなく、統制されているわけでもないのに、率先して権力の広報機関に化しているNHKをどう思っているのだろうか。
渡辺氏は現役のNHK職員であり、沖縄放送局にいる。
この本は、昨年12月に発行された。TBSの金平さんが推薦していたので、図書館から借りて読んでみた。知らなかった事実が掘り起こされ、歴史の研究をしている私としては大いに参考になった。ただこれは歴史書ではないので、叙述は緻密ではない。行替えも多く、200ページの本ではあるが、短時間で読むことができる。