浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

大杉栄らの墓とアール・デコ

2023-02-14 20:24:20 | 大杉栄・伊藤野枝

 昨年書いた文を掲載する。今年は関東大震災から100年。その混乱のなかで虐殺された大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓は、静岡市の沓谷霊園にある。今年はその墓を訪れる人も多いと思うので、これからいくつかを紹介する。まずその墓のデザインについての言及である。

はじめに

 ある日、H氏からメールが届いた。H氏の友人から、静岡市・沓谷霊園にある大杉栄らの墓が「アール・デコ調」だと指摘された、というのだ。これについて教えてほしい、というメールであった。

 確かに大杉らの墓をよくみると、ふつうの墓とは異なり、意匠が加えられている(写真参照)。アール・デコといわれればそのようにも思える。そこで、問われたことについて、考察してみたい。

大杉らの墓建設の経緯

  なぜ静岡・沓谷霊園に大杉らの墓があるのかということについては、別の機会に掲載する。ここでは墓がどのようにつくられたかを記す。

 当初、大杉栄の父・大杉東が葬られている鉄舟寺への埋葬を企図したが反対もあって実現しなかった。その後臨済宗妙心寺派の真福寺(清水区)が候補にあがったが、これも拒否され、結局静岡市在住の柴田勝造・菊(大杉の妹)の尽力によって、共同墓地である沓谷霊園への埋葬となった。

 さて墓石であるが、真福寺檀徒の志田繁作が中心となった。その経緯を、『静岡新報』1925年7月14日付が、「墓石の世話人は、前記真福寺の檀徒志田繁作氏で、設計構図は同氏の弟志田政次郎の手に成り、市内辻町石工柴田恵作方の所に於て隠密裡に製作し、数日前出来上がったので、十二日深夜夜陰に乗じ七台の貨物自動車で前記共同墓地へ運搬し了ったのである。墓碑は基礎石から三段、其の上に大杉栄之墓と墓銘を刻んだコンクリート石が建てられ、頗る現代式のもので墓銘は大杉氏が自伝に認めた字体を模擬したものである(以下略)」と報じている。

  さて設計は、志田政次郎による。当時志田政次郎は、東京で建築を勉強中であったという。当時、建築の方面では、アール・デコが席捲していた。

アール・デコ

  アール・デコは、「1910年代から30年代にかけてさかんに用いられた造形のスタイルである」と、『アール・デコ建築』(吉田鋼市、河出書房新社、2010年)は記している(6頁)。同書はその特徴として、以下のように説明している。

 「アール・デコの建物は、たいてい鉄筋コンクリート造であ」(9頁)り、「アール・ヌーヴォーはなめらかで流れるような非対称で自在な曲線的模様を特徴とする」が、「それに対して、アール・デコの造形はおおむね対称形をしており、非常に幾何学的でほとんどは定規とコンパスで描きうる。・・(中略)・・アール・ヌーヴォーの造形は曲線的・有機的・非幾何学的・非対称・平面的であり、アール・デコの造形は直線的・無機的・幾何学的・対称的・立体的ということになる。」(18頁)

 アール・デコは、もちろん日本へも波及してきた。「大正末期から昭和初期の建物は、多くがアール・デコのグループに属する」(吉田鋼市『日本のアール・デコの建築家』王国社、2016年、16頁)とされている。

大杉栄らの墓とアール・デコ

 大杉栄らの墓をみると、コンクリート製、左右対称であり、直線的、幾何学的であることがわかる。墓石の頂部が細められており、アール・デコの建築として有名な早稲田小学校の門柱とよく似ている(ただし現在の門柱はそれではない)。また墓石の上部にギザギザの文様が施され、「大杉栄之墓」と刻まれたところはくぼんでいる。

 アール・デコ建築の設計者は、「建物の用途や、建物の体現しなければならない性格を伝えるために、それぞれの状況に応じて様々な造形要素を使い分けた」(前掲『日本のアール・デコの建築家』、18頁)とのことであるが、大杉らの墓もそのような意図のもとに造形されたのではないかと推測できる。

 大杉栄らの墓の設計者は、東京で建築を学んでいた志田政次郎である。当時建築を学ぶということは、アール・デコの意匠を学ぶことでもあった。彼の足跡をたどろうとしたが出来なかった。

吉田はこう記している。

 アール・デコの建築家たちは、基本的には物言わぬ、言挙げしない建築家たちである。設計の主旨とか意図とか、建築のあり方とか、社会に対する問題意識などを声高には叫ばない人が多い。黙々と仕事をし、施主に気に入られ、それを使ったり見たりする人の記憶に入り込み、結局は時代の景観を作ってきた。そしてそのいくつかは、今日も同じ用途で使われ続けており、時には文化財となったり、景観重要建築物となったりして大切に保存され、時代の文化や雰囲気を伝える貴重な歴史的資産となっている。(『日本のアール・デコの建築家』、「あとがき」)

おわりに 

 大杉らの墓は、志田繁作が中心となって、政次郎が設計し、石工・柴田恵作が施工した。その墓は2025年で100年となる。独特の意匠を持った墓は、これからも、1923年9月の国家権力の暴虐と大杉栄、伊藤野枝らの記憶を語り続けていくはずである。

〈付記〉静岡市に於けるアール・デコの墓として、文化財にすることも可能ではないかと思われる。

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内田樹「ウクライナ停戦の条件」

2023-02-14 09:12:44 | 国際

 なかなかウクライナ戦争は終わらない。戦後の国際秩序を揺るがす冒険を敢えて企てたプーチン政権。簡単に終わると思って始めた戦争が、ウクライナ側の抵抗とNATO諸国の軍事援助により、ロシア側に大きな損害を生じても、プーチンはそれをやめることはできない。

 内田氏は、「ロシアでは、領土的譲歩を含む政治的主張は法律によって禁じられている」ことをあげる。プーチン政権は、ウクライナに対して「領土的譲歩」は、したがって絶対にできない。ウクライナがクリミア半島やウクライナ東部を取り戻そうとしているが、プーチン政権はまったくそれに応じることができない。そこに妥協はありえない。もしプーチン政権が妥協したなら、プーチンの政治生命はたたれる。

 そこで内田氏は、こういう停戦条件を示す。プーチンの政治的生命を保証すること、ロシアに隣接する国々へは絶対に軍事的支援を行わないこと、である。しかしここにはクリミア半島やウクライナ東部の帰属の問題は条件にあげられていない。ウクライナ側がクリミア半島とウクライナ東部を放棄することを前提としているのだろうか。

 ロシアの軍事力によって殺戮され、破壊されたウクライナの人びとにとっては、すでにロシアは不倶戴天の敵となっている。ロシア語話者であっても、ロシアの蛮行に対して烈しい怒りを持つ人が格段に増えた。そうした怒りをもったウクライナの人びとが、クリミア、東部をロシアに「割譲」することを肯定するだろうか。私はきわめて難しい、とみている。

 もちろん戦闘を即時ストップし、その後は話し合いで解決することがもっとも望ましいことである。

 だがおそらくアメリカは、このウクライナ戦争を利用して、ロシアの弱体化を図っているのではないか。また兵器をウクライナに与えることは、アメリカの軍需産業を潤すことになる。これは、アメリカが戦後一貫して行ってきたことだ。

 となると、解決はきわめて難しい。戦闘はすぐには終わらないだろう。

『世界』3月号に、野村真理氏が「西ウクライナの古都 リヴィウが見ていたこと」を書いている。西ウクライナは民族混住地域である。これは旧ユーゴスラビア地域でも同じであった。野村氏は「民族が国境を作ったというより、国境が民族を作りだした」と指摘する。

 この地域は、オーストリア帝国、ロシア帝国(ソ連)、ポーランドの支配、そしてナチスドイツの侵攻があった。そのなかで、民族が「出現」し、あるいはユダヤ人などが追放され、対立抗争が始まった。野村氏はこう指摘する。

 「これら地域の歴史に関心を寄せる者は、かつての民族混住地域が、まさしくその混住ゆえに持ちえた文化的創造力の豊かさ、多様性、そのかけがえのなさに感嘆し、なぜ、それが、無惨に失われなければならなかったのかと問う。」

 まったく同感である。なぜいがみ合わなければならないのか、おそらくそれにより何かを得る者がいるのだろう。悲しいかな、そういう輩の扇動にのせられる人がいる。人間社会では、まったくムダなこと、有害なことが大きな力をもつことがある。それを、私たちはなかなか押しとどめることができない。

 

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東京新聞・社説(2/12)

2023-02-14 08:24:27 | 社会

 日曜日の社説である。その内容はとてもよい。

 ただ社説の中に、ある企業の社員食堂のことが記されている。職場における差別と分断である。中日新聞社には、そういうことはないのであろうか。今はどうか知らないが、同じ中日新聞の記事を書く記者には、中日新聞の記者と「中日通信」の記者がいて、そこに差別があることを、以前中日新聞記者から聞いたことがある。それはなくなったのだろうか。

 中日新聞社員の労働組合は、新聞労連には入っていない単独組合である。社員の中には、中日新聞社の少数組合である新聞労連加盟の東京新聞労働組合の組合員がいる。中日新聞労組員が日々書いていることと社内の実態とに齟齬があると感じた人が、東京新聞労働組合に移っている。自分自身を安全なところにおいて、みずからは闘うことなく社会を批判する人はどこにでもいる。要領がいいのである。そういう人は、いつのまにか管理職に「出世」する。私の身近にもいた。しかし、そういう人を私は遠ざけてきた。なぜなら信用できないからだ。

 さて社説を掲げる。内容的にはよい。

 二〇二三年度の公的年金額が決まりました。賃金や物価が上昇したので年金額も増えます。ただ、その額は、年金額の上昇を抑える仕組みが働くため物価上昇分に届かず、実質的には目減りです。
 
 抑えられた給付額は、将来世代の年金財源に充てられます。この仕組みは、〇四年の制度改正で導入が決まりました。
 
 少子高齢化が進み、年金額の伸びを抑えないと現役世代が支払う保険料は際限なく上がります。それを防ぐために、保険料を一定のところまで引き上げて固定し、そこから得られる財源で年金を払う方式への変更です。
 
 この改正では厚生労働省のある官僚の嘆きが忘れられません。
 
 それまでは年金額について、高齢期の生活を支えるためにさまざまな経済指標を集め、突っ込んだ議論をしていたといいます。
 
 しかし、制度の考え方が必要な額でなく、払える額に変わってからは、こんな議論もなくなってしまったそうです。

◆低下する社会の「防貧力」

 日本の社会保障制度は、戦後の混乱期の貧困から救う「救貧」や貧困に陥ることを防ぐ「防貧」を中心に整備されてきました。高齢期の生活を主に支える公的年金は防貧の代表です。
 
 戦後の経済発展とともに年金、医療、介護、雇用、労災などの社会保険を整備して高齢や失業に伴う収入減や、傷病など医療の費用を社会全体で分担する仕組みを防貧力として育ててきました。
 
 しかし、必要な額ではなく、払える額しか払わないのでは、防貧力が土台から崩れかねません。
 
 その最大の要因は少子化に伴う人口減少と経済の停滞です。少子化は社会を支える人材を、経済の停滞は一人一人の支える力をそれぞれ奪います。
 
 国民生活基礎調査によると、二〇年の全世帯の所得中央値は四百四十万円で二十五年前の五百五十万円から二割減り、逆に四百万円未満の世帯数割合は増えています=グラフ。社会を中心で支える中間層が貧しくなっているのです。
 
 もうひとつ、社会保障制度を静かにむしばんでいる要因として「分断」が挙げられます。
 
 社会保障制度は支え合いの営みであり、それなしに制度は成り立ちませんが、制度を揺るがすような人間関係のざらつきが広がっているのです。
 
 企業の人事管理を支援する専門家からこんな話を聞きました。
 
 ある企業の社員食堂では出入り口に近い便利な場所を社員とパート従業員が利用し、奥の薄暗い場所は派遣社員や外部から来ている委託企業の従業員が利用するとの暗黙のルールがあるそうです。
 
 事情を知らない外部従業員が、いつもは社員が使う場所に座ろうものなら、苦情が出そうな空気が支配しているといいます。会話もかわされないことでしょう。そこにあるのは分断です。
 
 以前なら、立場が違っても同じ職場の仲間意識があり、それが安心感にもつながっていました。
 
 しかし、社会のあらゆる場面で個人が分断され、他人には構っていられなくなりました。自分以外を「敵」と見なすこともしばしばです。貧困が分断を拡大させ、コロナ禍で加速しています。
 
 自分の弱みを人に語り、理解し合うことで人はつながります。
 
 でも分断が進むと、同じ社会で生きていながら気持ちの交換が滞ってしまいます。話を聞いてもらいたいのに聞いてもらえないという不安が募り、助け合う気持ちも擦り切れています。
 
 絵本「ぼく モグラ キツネ 馬」(チャーリー・マッケジー著・川村元気訳、飛鳥新社)は、少年が動物たちとの対話を通して生きる意味を考える物語です。
 
 少年が「いままでにあなたがいったなかで、いちばんゆうかんなことばは?」と聞くと、馬は「たすけて」。「いちばん強かったのはいつ?」と聞くと、馬は「弱さをみせることができたとき」と答えます。

◆支え合い再生のために

 支え合いを再生するために、まずはお互いに人の話を聞くことから始めてはどうでしょう。
 
 誰かに自分の弱さを聞いてもらって理解してもらう。そうすれば不安でいっぱいの心に安心が芽生え、ほかの誰かの不安にも耳を傾ける余裕ができるでしょう。
 
 物語の馬が「勇敢な言葉」だと語った「助けて」のひと言が言える、そして聞いてあげられる社会にしたい。だって「困った時はお互いさま」ですから。

 

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