『世界』3月号の岡真理さんの論考はとても考えさせられた。岡真理さんは、パレスチナ問題の専門家である。岡さんの本は、その繊細な神経で通常では気づけないことを指摘してくれる。今回の文章も、である。
岡さんは、ウクライナ難民とシリア難民を比較する。同じ難民なのに、報道の仕方も世界の扱いも全く異なるという。実際そのその通りだ。ウクライナ難民については、世界からの同情が寄せられ、多くの国で受け入れられ、日本でも厚遇されている。ではシリア難民はどうか。シリアから難民となってヨーロッパにわたるさいも、危険な海を小さな船をつかい、多くの難民が遭難し、やっとヨーロッパに着いても、入国を拒否され、邪魔者扱いされている。
ここには明確な二重基準が指摘されている。岡さんはこう記す。
非西洋世界の人々が欧米の二重基準を批判するのは、単にそれが差別だからではない。近代西洋世界は「普遍」を僭称しながら、非西洋世界の者たちには自分たちと同じ人間性を認めず、奴隷制や植民地支配を行った。非西洋世界の近現代史とは、「普遍」を掲げて人間の尊厳を蹂躙する西洋のレイシズムと二重基準に抗し、普遍的人権を字義通り真に普遍的なものとする闘いの歴史であり、その闘いは今も続く。だからこそ、かつてと同様に「先進国」として国際社会を領導する欧米諸国の、普遍的理念を裏切るレイシズムや二重基準は、西洋の「植民地主義」の暴力の継続として批判されねばならないのだ。
ロシアの侵略を非難し、侵略の犠牲者であるウクライナの人々の苦難に共感することは、人間として自然な感情のようにも思えるが、普遍的人権や平和の大切さとは関係なく、米国が是とするものを是とし、自らも戦争のできる国づくりを目指す政府の意図に沿うものでもある。だからこそ私たちは、この二重基準を批判し、人間の平等を貫徹させなければならない。
実際報道も、ウクライナ難民については詳しく報じ、それが途切れることはない。しかしシリア難民など、非欧米で発生する難民については、ほとんど報じられることはない。
先日『人種主義の歴史』を紹介したが、この難民問題でも、明確に人種主義(レイシズム)が存在している。
そして岡さんは、パレスチナの状況を記す。イスラエルにより閉鎖され、ときにイスラエル軍の攻撃により庶民が無残にも殺されていく。閉じ込められた狭い空間に大勢の人が住み、しかし働くこともままならず、ただ生きるだけの生活を強いられる。
岡さんはこう書く。
国際法に照らしてロシアのウクライナ侵攻が非難されるなら、イスラエルも同様に非難されなければならない。そうならないのは「国際社会」の二重基準のせいである。
イスラエルのパレスチナ侵略は、ほとんどニュースにならない状況がある。
岡さんは、末尾にこう記している。
ロシアの侵略は非難されねばならない。だが、平和の真の敵はプーチンではない。普遍的人権や国際法の「普遍性」を切り崩す、国際社会の二重基準こそ、私たち世界市民が戦わねばならない敵である。
岡さんの主張は、鋭く私のこころに突き刺さる。