浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沖縄のこと

2023-04-09 20:16:46 | 現在社会

 『世界』5月号を読み進めているが、田仲康博さんの「「戦後ゼロ年」の沖縄から」は、きわめて刺激的な論考であった。

 沖縄は、日本の対米隷属の最前線。アメリカに何らかの脅威が起きたときには、アメリカ本国と同じように対応する。田仲さんは、2001年9月11日のことを記す。その日、沖縄は、平時から戦時へと変わったことを記す。私たちは、9・11を他国のこととしてみていた。しかし沖縄はそうではなかった。沖縄はアメリカそのものであったのだ。

 アメリカがどこかで戦争するとき、沖縄も戦争をする。アメリカは四六時中どこかで戦闘をしているから、沖縄はいつでも「戦時」なのである。だから、沖縄には「戦後」はなかった。だから「戦後ゼロ年」なのだ。

 日本では、現在の自民党・公明党政権はアメリカへの隷属を主体的にすすめているが、それを私たちは「戦後から戦前へ」という認識で捉えている。ところが、沖縄には「戦後」はなく、あの戦争と続く歴史を刻んでいるのだ。

 だから、田仲さんが学生を辺野古に連れて行ったとき、次のような問答がなされた。

 あなたたちは何をしにここに来たの?

 これに対して、学生たちは「沖縄の声を聞くために」、「平和を学ぶために」と答えた。すると、質問者はこう語った。

 そう。君たちは平和を学びに来たんだね。平和を学べるっていいよね。ここではね、平和は闘いとらねばいけないんだよ。

 沖縄の住民と、本土に住む者たちの「絶望的なまでの〈距離〉」を、田仲さんは指摘する。さらに沖縄の平和運動は、「平和運動」と呼ばれる概念をこえて、日本国憲法13条、25条にかかわる、「人として生きるための、あたりまえの〈日常〉を取り戻すための運動」であり続けてきたことを示す。

 そして最後の方で、こう記す。

 国家権力は知らず知らずのうちにわたしたちの風景に忍び寄り、わたしたちの言葉と身体を萎縮させる。異議申し立ての声がどこにも届かないという空気が醸成され、人々の間に拡散されていくとき、失われるのはまず言葉だ。

 権力は言葉本来の意味で「聞く耳」をもたない。なにをしても無駄だと思わせる「尋問空間」においては、圧倒的な受動性が状況を支配していく。

 さしあたって言葉を鍛えるしかない。まずは、自分の言葉をチェックする必要があるだろう。いつの間にか、それが権力者の言葉を内在化したものになっていないかどうか。一人でやるのはシンドイ作業だが、まずは他者に向けて発話してみると相互チェックが可能になる。

 ・・・・「世界は暫定的」なものであるということだ。そこには希望がある。暫定的、つまり、変えることができるということだ。

 わたしたちはもうとっくに「戦前」へと続く道を転げ落ちている。こんなときこそ振り返ってみよう。まずは自分が立つ位置を確認すること。すべてはそこからーそこから始めるしかない。

 私たちが生きる世界は「暫定的」、その通りだと思う。田仲さんが言うように、だから希望はある。

 

 

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「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」

2023-04-09 13:32:20 | 歴史

 『世界』5月号には、秀逸な論文が並ぶ。さすが『世界』である。

 論文ではないが、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチへのインタビューが掲載されている。これはTBSの「報道特集」でも放映されたものだ。『世界』では、ロシア文学者の沼野恭子さんのインタビューが付け加わっている。

 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの発言のなかに、「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばがある。この文は、こういう脈絡から発せられている。それを引用しよう。

 ロシア国民は、ここ何年もの間、虐げられ、騙され、盗まれてきたので、プーチンが国民を焚きつけるためにプロパガンダとして用いたスローガンを内心、待ち望んでいたのです。それは、「ロシアはこんなにも長い間屈辱を味わっていてはいけない」「 ロシアはうつむいていてはいけない」という言葉でした。

 そして「つまり」のあとに、前記の文が続く。

 一度「大国」として自他共に認識していた国家とその民は、「大国」ということばの呪縛から離れられないのである。

 ソヴィエト連邦時代、強制収容所などに象徴されるスターリン体制があっても、ロシア国民はかつての「大国」時代を回想するのだ。みずからがみじめであればあるほど、自分とは直接関係はないが、しかし自分自身が属していたそれに、みずからの栄光を投映するのだ。

 ソヴィエト連邦時代、そしてその後のロシアによる、国民に対する権威主義的な支配、また同時に周辺の国々に対する圧迫と抑圧、それを学んだ私は、ロシアという国家の、そしてまたプーチン政権がやることの「狂気」を客観的に見つめることができるのだが、それを知らずにいると、プーチンによるウクライナ侵攻が周辺の国々にどれほどの脅威を与えているのかを理解できない。

 「偉大な大国」に属するロシア国民は、「偉大な大国」に依拠すればするほど、周辺の国々にとってのロシアの脅威を想像することができないし、他方ロシアによる他国への圧迫をも支持してしまうのだ。

 自らが属する国家を「大国」だと認識するとき、国家と国民は一体化され、国家が他国に行う施策を、支持してしまう。とりわけ、かつては「大国」であったけれども今はそうでないという国家に属する人びとが、「大国」であった時のことを懐かしく想起するとき、過去の加害行為を忘れ去り、過去の周辺の国々への圧迫や侵略を正当化し、現在行われている周辺の国々に対する強硬な姿勢を支持し、国民も煽る。

 ロシアの民も、日本国の民も、その点で共通するのではないかと思う。

 日本において「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばは、対中国関係で露わになる。かつての大日本帝国の時代、中国人を「チャンコロ」と呼び、中華民国を蔑み、日本よりはるかに劣る国家として、大日本帝国の国民は認識していた。しかしその中国が、はるかに巨大な経済力をもち、またそれに応じた軍事力、外交力を発揮するとき、日本人のなかには、日本は「再び偉大な大国になるべきだ」という意識が生まれ大きくなっているのではないか。

 長い歴史を振り返れば、世界でいつも「帝国」として存在し続けたのは、中国の王朝であった。あの兵馬俑、台湾の故宮博物館に所蔵されている品々をみるにつけ、中国が過去一貫して大国として存在していたことを思う。たかが近代化で中国より一歩進んでいたことを唯一のよりどころとして中国を蔑視するのは、歴史の無知をさらけだす。

 今日本国は、中国を仮想敵として、南西諸島に自衛隊を派遣して、アメリカの尻馬にのって「臨戦態勢」を構築しようとしている。愚かというしかない。

 『世界』5月号には、宮城大藏さんの「失われたバランス」という論攷がある。戦後日本国家は、憲法の平和主義を掲げながら、基本的にバランスをとりながら外交の舵取りを行ってきた。しかし今は、アメリカ一辺倒の、バランスを欠いた外交政策を展開している。

 その論文のなかに、「アメリカの対外姿勢はしばしば急激に大きく変化し、その際には、他国を気にせずアメリカの都合で動くことがある」という指摘がある。その通りである。アメリカは、きわめて独善的な国家であって、それは一貫していて、アメリカの外交史を少しでもみればすぐわかることである。

 現在のようにアメリカ一辺倒で終始することはきわめて危険である。「意思疎通と信頼醸成」を、中国始め多くの国々と築いていくべきである。

 『世界』の論文を読みながら、いろいろなことを考えている。こうした刺激があってこそ、平和を志向することばは生きてくる。学ぶことは、ほんとうに大切だと思う。

 

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