イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「例外状態」という概念を提起している。近代民主政治の特徴である三権分立を無視して、行政が法を凌駕する事態、それが「例外状態」である。
私たちは、安倍政権以降、急速に「例外状態」のなかに投げ入れられたことを想起する。そしてその「例外状態」は、容易に全体主義国家へと変容すると、アガンベンはいう。
日本は、すでに全体主義国家一歩手前まで来ている、というのが私の実感である。
政治勢力として、統一教会党である自由民主党は、その主要な担い手であり、またその「下駄の雪」である創価学会党・公明党はそもそもから全体主義的傾向を持った宗教団体である。そして関西で伸びる「維新」は、デマゴギーをまき散らしながら全体主義的思考を強める政党である。またメディアに騒がれることによってのみ認知度を高め、話題になることによって票を伸ばす「NHK党」や「参政党」は、何を考えているかわからない目立ちたいだけの烏合の衆によって構成されている。
『世界』5月号で、松本一哉は「メディアの「罪と罰」」という連載の第一回で、「安倍政権下で起きたこと」を書き、アガンベンの言説を引用している。その文は、「メディアはどうすれば人々の『信頼』を取り戻していけるのか」という問題意識から記されている。松本は朝日新聞出身である。しかし朝日新聞は、新聞購読料を4900円とするという。また朝日新聞社の動きを見ていると、新聞発行会社としては今後引いていくという姿勢がみられる。そして読売、産経はすでに権力の翼賛メディアとしての地位を確保し、毎日は昔からだが腰の据わらない報道を繰り広げている。私が見るところ、一部の地方紙と『東京新聞』だけがジャーナリズム精神をもって新聞を発行している状態でしかない。
そんな状態の中で、メディアは「信頼」を獲得できるかという問いに対しては、悲観的ならざるを得ない。テレビをはじめ、主要メディアは、「例外状態」を支える、ある種の国家機関と化しているように思える。
松本は、現状の日本について、「「安倍一強」体制が揺らぎを見せない中にあって、政治に「真実」を求めようとする姿勢や、何が本当で何がうそかを見極めようとする感覚が少なからぬ人々の間で「鈍化」し、すべてを「やむをえないこと」として受け容れていく、そんな事態が進んでいたのではないか。」と書く。
こういう状況を、私は思う。日本人だけではないかもしれないが、庶民は有名人が好きだ。有名人、テレビに出たりしている人がどこそこに来る、というと、なぜか見に行く。私にはなぜ?という気持ちしかないのだが、政治家でもテレビに出ている人が来るというとき、庶民はそこに足を運ぶ。テレビは、政治家を有名人にする。とりわけ、関西のテレビは、「維新」の政治家を出演させる。庶民は、テレビに出ているということで「有名人」として認定し、一定の信頼を寄せる。
政治に「真実」を求めるという行動が、日本にあるのだろうか。それはきわめて少数の人たちの営みでしかない。
それはメディア関係者も同様だ。松本は「政治や権力との距離を厳格に保持」する、「市民の側に立つ・市民のための公共メディアとして生まれ変わる」というが、しかし日々の紙面を見ていれば、たとえば『東京新聞』と同じ中日新聞社が出している東海本社の『中日新聞』は、ジャーナリズム精神のひとかけらもない記事で埋まっている。行政が垂れ流すことを記事として批評抜きに載せる。スズキにべったりの記事を載せる。
『週刊金曜日』は、メディアで働こうという意思を持った学生たちに塾を開いている。そういうところに参加する若者は、ジャーナリズム精神を持つのだろうが、しかしそれとて持続するかどうか。社内には、そんなことを考えもしない人たちが働いている。一定の年齢になると、たとえば組合活動をしていたものが急におとなしくなり、管理職の階段を昇り始める者を、私は何人も見てきた。社会のなかの価値観、「いい年をしていい加減に丸くなれよ」という価値観は、今も存在している。
それは、現行の体制に馴化するということだ。この「例外状態」に馴染め、ということでもある。それに抗うことができる者はどれほどいるのか。
松本は、「「例外状態」を手にした行政権力が暴走した時の恐ろしさを、過去を振り返って押さえておくとともに、その怖さを自覚しておく必要は充分にあるだろう。」という。だが、メディア関係者は、どれほどこうした意識をもっているのか。